刑法奇行
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2002年05月03日(金) 奇行師と僕と私と・・・

 個人的な日記を晒すことに抵抗がないのかという質問があったが、まったく抵抗はない。なぜなら、奇行師というキャラクターを背後の私がコントロールしているからである。まさに、「正犯の背後の正犯」である。しかし、それでは本当のことではないのでは、という疑問が予想されるが、本当のことが何かなど誰にも分からないのである。ただ、奇行師としての身分・地位として、この奇行を書くのみである。意識的か、無意識的か分からないが、一定のスタンスはすべてのことに備わざるをえない。たとえば、刑法解釈論についての論文を書くとき(さらに判例評釈など)と修復的司法についての論文を書くときとスタンスが異なるのは当然である。
 ある意味で、人は皆ソフトな多重人格者なのである。K都大に移ったT山さんのHPにもきわどいのがあったが、あれはあれで素晴らしいことなのである。まさに、遠藤周作と狐狸庵、北杜夫と「どくとるマンボウ」である。私もこれを目指したい。
 当たり前のことではあるが、我々は、身分や地位にもとづいて、いろいろな顔をもっている。親父として、パパとして、子として、夫として、男として、大学教員として、刑法学者として、友人として、後輩として、先輩として、そして、セブンイレブンに弁当を買いに行く(たまにである。かみさんの名誉のため・・・)おじさんとして・・・、切りがない。大学では教員として、学会では学者として存在するにすぎない。しかし、それを一度破壊することも面白いかもしれない。以前、新宿駅で、ソフィア・ローレン大のM野さんが小学生の息子さんと山かピクニックからの帰りのほほえましい姿を拝見したが、なぜか嬉しくなった。あのカミソリ学者(切れるという意味・・・同じか?)のパパの姿を見たのである。今度学会も、午前中全員で山登りをして、その後、その山登りのスタイルのままやるのはどうだろうか。和気アイアイであろう。あるいは、全員浴衣で町内会の拡大版というのはどうだろうか・・・。
 結局、態度や言語のスタンスを決定するのは、やはり名宛人であろう。それでは、この奇行の名宛人は誰か。それは「癒しを求めるすべての人」と大風呂敷を広げておきたい。healingがキーワードである。ヒーリン・・ウオウオウオ・・ヒーリン・・という歌が聞こえる(あれはフィーリングである)。
 大江は、障害児の光君を小説の中で「イーヨー」という名で登場させた。本当のことを彼は語ったのであろうか。彼が使う「僕」と大江自身・・・興味が尽きない。イーヨーは「クマのプーさん」にでてくる、臆病な馬?である。ちなみに、私は、娘にいまだに「プーちゃん」と呼ばれている。そのスタンスだけはけっして人前には出したくないと思っているわけである。

ジャーニー to シゴト・ハカドラーズ


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