こころの大地に種をまこう 春名尚子の言霊日記

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2004年07月14日(水)  はいさい。

喜納昌吉が参議院議員になっちゃったよ・・・。
これからどんな面白いことをしてくれるんでしょう。

掲示板復活させました。
別に選挙対策で閉じていたわけではなく(笑)
手入れできないんだろうなあと思って閉めていた。

今年は激動の年で、2月からずっと関東・沖縄・大阪・旅生活。
最近では、二日つづけて自分ちのベッドで眠れる日なんてない。
愛する人の胸に抱かれてとろとろと眠りたいなんて夢のまた夢。

いろいろと考えることもあるんだよね。
お返事できんくて、心苦しくて、プレッシャーになっちゃったりね。

のんびりやるんで、よろしくです。

今回の祭りでいろんな人に会いました。
みんなステキな人です。目キラキラさんばかり。
私も、目キラキラでいたいと思いまーす。


11日の昼に沖縄入りし、翌朝まで開票を見守り、
当確がでたあとは朝まで飲みました。軽くね。

翌日はこの間の写真の整理に明け暮れて、13日の朝方までかかって終わらせると、始発便で家に帰りました。

なんだかバタバタと過ごした沖縄でした。
沖縄そばも食べれなかったなぁ
海にもつかるどころか、さわれなかった。(泣)


今日は、母の三七日で仏壇が実家にやってきた。

選挙公示の夜、明けて二五日の深夜に母が亡くなったのでした。
ここ数ヶ月、末期ガンの母の看病のために家族で病院にこもっていた。
「喜納さんの応援にいってくるね」と声をかけて、私は東京に向かったの。
それが、最期。

母は喜納さんの大ファンなのだ。
私が喜納さんを最大限に応援するために、その日を選んで旅だったのだなあとしみじみ感じた。

始発で帰ろうと思ったけれど思い直した。
喜納さんに報告してから大阪に戻ることにした。

喜納さんの顔を見ただけで涙があふれてきた。
訃報を聞いたときには流れなかった涙が、
喜納さんに報告をしている間中とめどなくあふれ出てきた。
選挙活動二日目を沖縄で過ごす喜納さんを見送って、私も母の元へ向かった。

すばらしいお葬式だった。
「すべての人の心に花を」で見送った。
たくさんの人が、私の知らない母の話を聞かせてくれて、泣いてくれた。

無事に葬式を終えた翌6月27日、私は神戸での遊説から喜納本隊に合流した。
それが母の遺志だと、家族はみんな思ったのだ。
使うことなく逝ってしまった母の選挙ハガキをお守りにもらって私は家を出て、
私がいない間の息子の世話を父と姉がしてくれていた。


名古屋japonという仲間たちのお店で、喜納昌吉の名曲「森の人よ」を踊る機会に恵まれた。
喜納昌吉のスタッフだった時代エイサー隊の一員だったが、
98年の白船を最後に私は文章で喜納昌吉の祭りに参加することに決めてエイサーをやめた。

エイサーはもともと慰霊の踊りでもあるし、喜納昌吉やスタッフにとって神聖な踊りだ。
遊びでは絶対に踊れない。
エイサー隊のひとりが名古屋の仲間たちに教えているところで一緒に踊らせてもらったのだ。

約6年ぶりに踊った「森の人よ」。身体はそれを覚えていた。
私は、母のために踊った。
天と大地に祈りを捧げる和合の踊りを舞いながら、目をつぶって母を想った。


母のことがなければ、これほどまでにどっぷりとこの祭りに参加することはなかったかもしれない。
たくさんの人にあって、たくさんのことを学んだ。
それもすべて母が導いてくれたことなのかもしれない。
そう思うと、すべての出会いを普段以上に大切に感じることができた。
出会ったすべての人に、ありがとう。

喜納さんは参議院議員になったけれど、私は小説家の卵のまま。
はやく殻を割り、翼を広げて大空を飛ぼう。

前を向いて、自分の信じた道を歩いていこう。
仲間とともに。自分のこころとともに。

ありがとうございます


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