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■ 快感についての短い考察 / 蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』
昨日来た見学の兄ちゃん(30歳男、以下K氏)と一緒に野良へ。 また草倒し、というかしつこい草ばっかなので「草引き」をしてから、午後はボカシ散布。 くそ暑いと思っていたら雨が降り出し、気持ちいいなどと強がっていたら本降りになってきて参った。
こうやって俺たちの先祖たちは来る日も来る日も畑に出て、黙々と、あるいは下ネタかましながら、単純労働にひたすら励んでいたんだなあということが、不思議な重みを持って実感できる。 1列終わればまた次の列、次の段、次の園地。日が高くなり、影が移り、だんだん太陽が黄色っぽくなって傾き、「ぼちぼち帰るか」といって家路につく。
同じような毎日、と思ううちにも季節が移ろい、収穫を迎えて、落胆したり喜んだりしているうちに、次の収穫への準備が始まる。 ひたすらひたすら。 ひたすら、という言葉が痛いほど似合う、そんな日々、そんな年月。
そして、いつか世代が替わって、一農民は死んでゆく。 歴史書に刻まれることもなく、うた一つ残さず、今ならせいぜいNHKのお昼の番組の片隅に1回映るか映らないかの証拠だけ残して。 なんとまあ!・・・そして、墓石が増え、歴史に埋もれ、忘れられてゆく。
入社式なんかの映像を見るたびに思う。 映っている彼らの表情、そしてそんなニュースを流す側の人間にも、「所属する快感」が漂っているのをひしひしと感じる。 所属するということ、それはまぎれもなく、快感ですよ。 そして、そのことを強調するために、大企業だとか一流企業だとか、そういうシールが効果的なんだということです。どんな中小企業、零細企業でも、その快感は確実に存在してるし、無職であることは不安と同義だし、フリーターには常に「漠然とした不安」という枕詞が冠される。
名刺がステータスになるのは、社会的にはごく当たり前のことになるわけだ。だから孫請け代理店の社員が「電通」の営業用名刺を持っていたりするし、逆に自然派気取りの脱サラ就農者が「百姓」って書いた名刺を配り歩いたりするわけで、みんな「便利だから」なんて言うけど、ほんとは気持ちイイからってだけなんだけどね。
快感や快楽は、あからさまに見せずに隠すのが大人の対応、ですものね。
そしてこの快感こそ、歴史に埋もれていくという恐怖への精一杯の抵抗に他ならない、と思う。 俺はそんな人々を愚かだとは思わないし、俺だって自分の人生にはほんの少しでも意味があると思いたい。 農民として生きていくのはつらい、それはその作業のためだけではなく、本質的につらいことだと思う。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を迎えるために――そのためだけに、日々恐ろしい想像と向き合わなくてはならないこと。
今日は昨日と同じで、明日は今日と同じである・・・みんな、否定するけどね。俺が死んでも、世界は何一つ変わりはしない・・・これも、みんな否定するけどね。 必死に否定する、むきになって「そうじゃない」と言う、それはその命題に、否定しがたい何か、思い当たる何かがあるからに他ならない。
なんか自殺する人の日記みたいだな(笑) 俺は、世界の仕組みを知りたいだけです。 『指輪物語』のゴクリみたいなもんです。
蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』読了。 加速度的につまらなくなる物語を読みたい人は、どうぞ(笑) ものすごく頭の良い女性の長い手紙ということだが、哀しいかな、作者の脳みそのほうが彼女に追いついてない。
すさまじく頭が良くて、仕事ができて、しかもかっこよくて、前向きで正直な(自分のだめな部分だけでなく、いい部分についても正直に肯定する、すごい)女性の日記なら、毎日webで読んでますけども。
2004年04月13日(火)
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