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■ 広島人が読む『灰の庭』
体調最悪。21世紀はじめての風邪だ。
あきらめて、本を読んだりしてすごした。デニス・ボック『灰の庭』。新刊の本を買って読むなんていつ以来だろう。しかもジャケ買い。 ←本でもジャケ?
マンハッタン計画に加わった科学者と、子供のとき広島で被爆した女性。科学者の妻。出会っていた二人が、女性が映像作家になったことで、50年後カナダで再び出会う。
カナダのトロントの近くに住むという著者は、一度も日本へ来たことがないそうで、調査と想像力はすごいもんだが、読んでまずは「これだからヨーロッパ人は・・・」(ごめん固定観念)。
どうしてあのヨーロッパ人というのは(作者の親がドイツからの移民)、ものを言う、話を書くとなると、さもワタシ頭いいんですみたいな「ウィット」とか「エスプリ」とかいうのかね、ああいうのに引きずられちゃうんだろう。
かなり興味の持ちづらい人間の内面とか、象徴とかについて観念的に語りすぎ。
頭でっかちで、しかもそこから話がぜんぜん膨らんでいかないのは恐れ入る。
小説として面白いかどうかは別にして、この作品は「広島」という存在についておもしろい石を投げ込んだとは思う。情景のディテールとか、日本人の描写の不自然さとか(この人はかなり上手だが)は、問題じゃない。
いやね、いわゆる「原爆文学」という一群のうち、ほとんどは読んだことがないんだけど、それは理由もへったくれも、読む前にすでにつまんなそうなんだよね。
それこそ、原民喜の原爆三部作(『夏の花』あたり)の迫力や井伏鱒二『黒い雨』の執念で十分だと思う。
『はだしのゲン』という、もはやマンガの域を超えた傑作だってある。
ただ、『灰の庭』で新鮮だったのは、アントンという科学者が、自ら一員となって生み出した原爆の惨禍について、自己弁護もしなければ卑下もしないという、かなり毅然とした態度だった。
彼は簡単に言う、「戦争を終わらせるために必要だった。だから仕事を遂行した」。
エミコという被爆した女性は、顔に負った大やけどの治療のため、思春期に醜く焼け膨れた顔をマスコミにさらしながらアメリカに渡る。これは「原爆乙女の渡米」という、実際の歴史に基づいているが、このとき数多い負傷者の中で彼女が特に手術を受けられる「幸運」を手にした背景に、アントンが関わっていた・・・という話が、だんだん盛り上がっていく(読む予定の人いたらごめん)。
そして、日本人であるエミコ(と僕)は「文明の衝突」の小さな、しかし明らかな例にぶち当たる。冒頭から散りばめられた暗喩と一緒に。
「困っている人がいた。だから助けた。」 「ささやかなプレゼントだよ。」 「私は自由をあげたんだ。それだけだ。」
エミコは反発する、それは私が選んだ選択じゃない。私の人生の問題だ。 彼女は決して、偽善者などと彼をなじりはしない。たぶん、その表現は間違っているし、彼もそんな罵声など気にしないだろう。
自由をプレゼントする。この発想こそが、世界を滅ぼす言葉なのに。
労働が、自由をつくる(Arbeit Macht Frei.) 帝国からの解放、大東亜共栄圏。 独裁者の追放、民主国家の建設。自由と正義に栄光あれ。
この小説が最初に出たのは9・11の前だ。なのに、なんと今これを読む僕に衝撃と恐怖を与えてくれることだろう。いやいや、できの悪い冗談でなく。
2003年05月15日(木)
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