ゆれるゆれる
てんのー



 断食明け大祭 僕はジャングルトレッキングへ

 2泊3日の山登り、この国で初めてのテント泊だ。チャイニーズばかり20人近い大集団だ。同好の士がメールで連絡を取り合ったものらしい。
 目的地はキャメロン・ハイランドの近くのGunung Batu Putih、西マレーシア第8位の標高があるらしい。
 結論から言おう。こいつらはなるほど山に登るかもしれないが、これはおよそ大人が休みに趣味として楽しむスポーツなどではない。自然に対するあらゆる面での無知、無防備、集団行動の基本知識・技術の欠如・・・まるで無邪気で、しかも無自覚だ。同じ事を日本の山でやってみろ、夏でも死人が出るだろう。あるいは全員が道に迷って遭難し、あるいは何人かが怪我に見舞われる。そしてその場合、適切な対処を知らない彼らはさらにひどい状況を作り出すはずだ。
 もちろん、日本の山に限らない。およそ世界中の山に当てはまるはずだ。ただしこんなことをしていたら、日本では事故にあう前に、大叱責がとんでくるだろうが。

 甲斐がないとは知りつつ、黙っていられないので、書く。僕が大好きなトレッキングというものをここまで馬鹿にされて、黙っていられないのだ。

 地図を持つのは地名を知るためではない。自分の頭で今の状況を考え、決断を下すためだ。今どこにいるかもわからないで――それどころか、これが確実に正しい道なのかどうかもわからないで――どんどん進んでいくなんて馬鹿なスポーツがどこにある。そのまえに、そんな馬鹿がどこにいる。たとえ信頼できるリーダーに統率されていたとしても、そのくらいは自分で把握すべきだろう。地図とコンパスで、残りの所要とタイムリミットを考えるというのはサッカーでいえば残り時間とスタミナ、それに対応した布陣を考えるのと同じで基本中の基本だ。これは監督の専任仕事ではない。

 根拠のない憶測で決断を下すのは、簡単に人の命を奪うことにつながる。この認識が、なんと彼らの中には皆無だ。これは山やジャングルに限らない。人間が支配する世界でも同じことなのだが、彼らはなんと、「万物が万物に対して羊」と固く信仰していることか。初めて来た山で、現在地もわからないくせに「あと30分でキャンプサイトに着く」といってみたり、同じく「下りだから休まなくてもいい」と決め付けてみたりすることがあまりにもたびたびで、しまいには僕は彼らが何を言おうが耳を貸さなくなった。ばかばかしいのだ。

 根拠というのは数字に限らない。きちんと合理的な判断を積み重ねた上でなされる決断しか、僕は信頼してはいけないと思うのだが、今回のすべての行動はまるで行き当たりばったり、朝令暮改としか言いようがなく、途中からは僕も彼ら流の「個人主義」に倣って、なるべく彼らの決め付けから距離を置いて、自分が誘った日本人の友人を安全に下山させることだけを考えることにしていた。

 これはスポーツなのだ。表現があいまいなら言い換えよう、これは大人の遊びなのだ。トレッキングというスポーツの目的は、何をおいても、「目標を達成して、安全にうちへ帰る」ということにある。どんなに評価を得た登山家でも、山で死んだとしたら、その人は敗北したのだ、と僕は考えている。つまりこのスポーツでは一度も負けることが許されないのだが、しかしトーナメントではない。何回勝ち抜いても、だからえらいということにはならない。だからこそ、経験という形で自分にだけわかる褒美が与えられるのだ。次に山へ行くとき、「負けない=安全にうちへ帰る」ために、何をすればいいか、何をすべきでないか、が判断できる、という褒美だ。これを生かしていなければ、山登りを10年やろうが20年やろうが、はっきり言って何の意味もない。まあ、経験のある人間から見て「ああ、こいつは馬鹿なのだな」と判別できるという意味はあるかもしれないが。

 雪など降らない分、マレーシアの山が日本の山より簡単だ、ということにならないのは、日本の夏山でも毎年死者が出ているのを引き合いに出すまでもないだろう。むしろ、ここは別種の異界なのだ。「緑の魔境」なのである。なのに、どうしてここまで無自覚なのだろう。

 非常に感じたのは、道具に対する妄信ともいうべき信頼だ。すぐに道具自慢をしたがるのは日本にもよくいるが、日本ではいい道具を使う輩が、夏山の死者の一番多い年齢層とぴったり重なるのは偶然ではないように思う。

 すこしわかったことがある。この国では、トレッキングというものはまだまだひよっこの、新しい概念なのだ。せいぜい10年かそこらの歴史しか持っていないし、そもそもが外国から持ち込まれた借り物の遊びなのだ。だから、日本の登山史のように、自ら痛い思いを体に刻み付けるまでは、何を言っても無駄かもしれない。

 とにかく、僕がこうあきれるほど、彼らはあらゆる危機管理ができていなかった。遭難を防ぐための、何重にも張り巡らすべき危機回避策がまったくとられていない。AがだめならB、BがだめならCという発想がない。これがひたすら信じられなかった。何か問題が起こるとそこで思考停止してしまうのだ。そして下される決断は、もはや思いつきとしか呼びようのないものだった。この怒りの前には、ごみを持ち帰りながら(これは雑誌か何かで借りてきた思想だろう、普段ごみを投げ捨て放題の彼らを見ているから不思議だが)も生ごみを投げ捨てたり、沢の水で食器を平然と洗ったりすることへの怒りもしぼんでしまった。勝手にしろ、と思えばすむことだった。ここはお前らの国なんだ。日本でもそういう馬鹿はいる。

 甲斐がないとわかっているが、とにかく、こいつらと一緒に泊りがけの山へ行くのはごめんだ。
 変な予感が当たってがっかりしている。死ななくてよかったよ。

2002年12月08日(日)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加