ゆれるゆれる
てんのー



 ほかの町へいった

 一泊でイポーのあたりをうろついてこようと思い、朝9時ごろうちを出た。

 バスでKLまで出てセントラルマーケットの近くで朝飯を食べ、軽いため息をつくともう10時半だ。バスターミナルで「アジアだなあ」と意味もなくつぶやいて、バスに揺られて3時間、あっという間にイポーに着く。

 イポーの印象を書く。奇妙な印象を与えてくれた町だったので書くのだ。

 静かすぎた。小さい町ではない。首都と、シンガポールのおこぼれで大きくなった町に次ぐこの国第三の都市だというが、気味が悪いほどに人がいない。正確を期して言えば、視界に入る人たちも、なじみの馴れ馴れしさを発揮してくれない。日本人みたいで気味が悪い。歩道ですれ違うときには向こうから身をかわしてくるのである。驚き怪しまないわけにはいかない。

 雨の似合う街だ。激しいスコールにやられた負け惜しみでそう思うのかもしれない。軒先の雨だれや、新しいのか古いのかさっぱりわからないショップハウスのモルタル壁といったささやかな要素たちが、いかにも意味ありげに存在を主張している。雨宿りしているあいだ暇な僕は、なんだか意味を読み取ったような気持ちになってイポーを三次元的イメージで把握しようと空想する。

 もちろんそんなところに意味なんてないのだ。錯覚は快感の同義語とさえ思えてくる。

 マレーシアに住むようになって、自分の中でひとつ明らかに変わったことがある。僕は貧乏旅行やバックパッキングという言葉を嫌い始めている。言葉の意味するところよりも、これらの言葉が使われる状況が嫌いだ。

 嫌いな理由を一言にしてみよう。「だから、なんなの」。

 独り歩きし始めた言葉は、いつだって不幸だ。おのずから無責任な存在になるのだから。

 好き嫌いに理由は要らないと子供たちは言う。普遍的でないことがらに理由をつけたがるのは愚かなことだ。それでも理由を書くのは、俺は愚かなんですと誇示したいからじゃない、普遍的でなくても実際的なことではあるかもしれないからだ。

 おそらく、僕にはこの町の何も見えていない。いつだって、何にだって「本当の何か」「正しい何か」があるはずだという前提に、僕は食傷気味だ。見なくてもいい。正しくなくていい。宿が安い、飯がまずい、バスが来ない、だからなんなの。ぼんぼん育ちの自由論ほど飯がまずくなるものはない。馬鹿野郎、どうして貧乏旅行者って言うか分かっているのか。『歩き方』で見つけたドミトリーに泊まるやつのことじゃない、そいつの発想のことだよ。自由は論じられるべきものではない。口端にのぼせた途端に姿を消してしまうという点では、なぞなぞの「沈黙」と同じだ。

 なぜそう思うかって。僕もぼんぼん育ちだからね。貧乏を想像することもできないくらいぼんぼんだ。気楽なものだよ。だから今まで、団体観光客を見ると嘲った笑いを浮かべていたのだ。まるで、日光猿軍団のしぐさを見て笑うように。その笑いに人まねへの後ろめたさがあることに気づいたのは、ごく最近だ。むしろそのためにこそ、ことさらに嘲ってみせる必要があったのだ。

 俺たちは豊かなんだ。たぶん、世界史上でもっとも豊かな生活を送っている。ありがたく思えば、それで十分だ。搾取しなければ豊かな人は生まれない。それで十分だ。今現在、貧乏な人に思いをいたすなんて、貧乏が腹かかえて笑わあ。革命おこす気合も脳みそもないくせに、と言って。豊かな僕たちは、貧乏な人たちに会いに行ける。不均衡が道義的に許せないなら、彼らにユニコーンの歌詞を耳打ちするのだ、「君を見てると昔の私を見るようだ、女にうつつを抜かすと私のようになれないよ」。


2002年11月03日(日)
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