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■ 梨を買い、人ごみについて考える
久しぶりにKLへ出る。土曜の夜、チャイナタウンの人ごみは言うまでもないが、どことなく風景に不自然さを感じてしまう。脂肪をだぶつかせた白人のおっさんやおばさん、そしてすね毛だらけの日本人旅行者など、この通りならではの人々が目に付くこともあるが、それだけではない。もちろん、他のナイトマーケットと比べてかなり高めの値段設定をしている屋台たちのせいだけでもない。この通りにあふれる人たちはたった二つの人種に分けられる――「売る人」と「買う人」だが、この人ごみの中を歩いていると、両人種が一致協力して、「あるべきチャイナタウン」を念頭に行動しているかのような錯覚が襲ってくる。
言葉を換えれば、よくできた芝居を見ているような錯覚が襲ってくる。通りを行く誰もが、「売っている私」「買っている私」あるいは「見ている私」を意識していて、あるべき観光地、あるいは理想的夜市としてのチャイナタウンを最大限に満喫しようとしている・・・ような錯覚が、錯覚でないとしたら、相当に不自然なことに違いない。
など、ころころと考えつつも、日本の「幸水」と同じような梨をいくつか買う。Pearは「西洋ナシ」だけど、日本型の梨はなんというのだろうか。「和ナシ」か?
くだらない思考は、帰り際に同行した他の先生が財布をすられるという事件で打ち切られた。案外世の中というのはずっと簡単なルールで動いているのかもしれない。
2002年10月12日(土)
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