ジョージ北峰の日記
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21 何かと相談相手になってくれていたN子が病気に倒れてから、私の周囲の状況も、変わり始めていました。 実家の近くでは、ゴルフ場の開発が始まっていました。私たちが修行場にしていた山にも開発の手が伸び始めていました。トロッコの線路がなくなろうとしていました。又修行場真下の樹林がなくなり芝生の平地が広がって見えるようになりました。カラス達も何処かへ引越ししたようでした。 父母は子供達の意見を(私は含まれていませんでしたが)参考にして「子供の為に」と静かな土地を求めて、この地へわざわざ引越ししてきたのでした(父にとっては勤務には随分不便な所だったに違いありません)。だから、ゴルフ場の開発は、この地の静寂さが台無しになると父も兄も随分怒っていました。 しかし当時私には父や兄の怒る理由がよく分かりませんでした。 むしろ開発途上のゴルフ場は、広々としていて子供達にとっては、格好の遊び場でした。棒切れでチャンバラをしたり、野球をしたり。勿論現場の人に見つかって、芝生が傷むと怒鳴られたりすることもありましたが、山中へ逃げ込めばすむことでした。まるで畑を荒らす猪のようなものです。 「悪がきが---」と思われていたかも知れません。 また、ゴルフ場近くにある池の周りにも鉄条網が張り巡らされてしまいました。以前から、夏にはこの池に周囲の人たちが大人も子供も海水浴場のように集まってきていました。誰が上手に泳ぐか競争したり、テントを張ってキャンプを楽しんだりする人達もいました。 公害がそれ程深刻な問題になっていない時代でしたので、ゴルフ場が池の汚染源なるとは考えても見ませんでした。だから鉄条網の意味するところも私には分からなかったのです。 しかしその後、池から流れ来る川下で、魚やトンボが激減しました。又蛍は勿論のこと、夏に泳ぎに来る人も見かけなくなりました。
当時、我が家の近くに、トタン屋根のバラックを建て、鶏を飼って、自作自農をしている粋人がいました。昔何処かの先生だったとかで、皆から尊敬されていました。子供達も親しみと尊敬をこめて「おじさん」と呼んでいました。滅多に人を褒めない兄も「あの人は字が上手、詩も読める、知識が深い、たいした人だ」と一目置いていました。
「おじさん」は満月になると尺八の美しい音色を響かせながら池の周りを巡るのです。 そんな夜は月明かりで、山影がまるで生き物のように緩やかに動き、 池面の漣(さざなみ)が黄金(こがね)のように揺らめき、月明かりに白く光る地面には、松の枝や葉が影絵のように映しだされるのでした。
山道(やまみち)を時には何人かの人が、「おじさん」について散歩していました。そんな時、よく昔話とか、当地の歴史とかを話してくれました。怒る顔を見たことがない、心の優しい人でした。 「おじさん」は鉄条網についても、怒りをあらわにすることはありませんでしたが、「こんなことをすれば、自然の美しさが壊れてしまう---」と、笑顔を絶やさぬまま、呟くように話すのでした。 当時は、車も少なく、まだ牛の大八車が路上を往きかう時代でした。 都会に隣接したこのような美しい自然が、押し寄せてくる近代化の波に徐々に消えようとしていました。
その頃、我が家でも、大変なことが起ころうとしていました。長兄が「大学を辞めたい」と言い出したのです。 兄から直接聞いたわけではありませんが「大学で学問をしたからと言って、どれ程の価値があるか分からない」と母に話したらしいのです。 勿論母が納得するわけがありません。親子の関係は、極めて険悪になっていました。母は、「元々兄は理数系が得意だったのに、文系の学部に進学したのが間違いだった」と父をなじっていました。話によると、兄の大学進学時に父が文系を薦めたらしいのです。当時、父は哲学を愛する青年が憧れてだったのかも知れません。 そして---母は「哲学を勉強するようになってから、頭がおかしくなった」と嘆くのでした。 学部を変えて「一から出直すべきです」と母は兄を説得していました。それから、兄は、暫く山小屋へ移り住んで家へ帰ってこなくなってしまいました。 私の視界から兄は突然消えたのです。 兄に会いに行くことは可能だったのですが、父は私たちが兄に会うことを禁止したのです。その頃父の命令は絶対でした。 しかしある日、兄がこっそり帰ってきて、私を呼んで、「医学部に行くことに決めた」と告白しました。
後日、母の話すところでは、兄は大学へ行く意味がないと言って聞かなかったらしいのですが、最後に「医学部なら、大学へ行く意味があるかも知れない」と、承知したというのでした。 ただ、文系から理系に移るには、履修科目の単位を取り直す必要がありました。兄が転学部のために大学へ交渉に出かけたらしいのですが、「そんなこと出来るわけがない」と一蹴されたらしいのです。 此処からが母の出番です。母は教務に出かけて「自分の息子が、いかに優秀かを説いたあと、やっと大学へ行く決心をしたこと、しかしそれも医学部でなければ駄目だ。是非転入させてやって欲しい」とかけ合ったらしいのです。 当時は医学部に入る為には、教養課程を終えた時点で医学部選抜試験に合格する必要があったのです。しかし医学部を受験するには、まず理系の単位を取得する必要があります。教務では「あなたの息子さんは、専門課程に入ってから大学へほとんど来ていない。その上、文系から医学部に転入するのは無理。理系からでも医学部に入るのは難しいのです」と笑って、最初は相手にしてくれなかったそうです。 しかしこんなことで引き下がる母ではありませんでした。「無理かどうか、単位取得の試験を受けさしてやって欲しい」と座り込んだらしいのです。「医学部の試験まで数ヶ月、出来るわけがないでしょう」と苦笑いしながらも、教務部長が「でも試験は受けてもらってかまわない」と最後には許可してくれたと、母は帰ってきました(試験を受ける為には、講座に登録していなければなりません、そして出席日数も問題になります。そのすべてを大学側が認めてくれたらしいのです。本当によく認めてくれたと、母は教務部長に感謝していました)。 しかし、実際に勉強するのは長兄です。私の場合なら、母もそんな強気なことはとても言えなかったでしょう。 ただ母にも私たち兄弟も、何故か長兄には絶対の信頼がありました。 「兄がやる気になれば不可能はない」と---。 それからの、兄の生活には鬼気迫るものがありました。兄が山小屋でどんな生活をしているか、私には知る由も在りませんでしたが---。兄は食事時に顔を見せるだけでした。 ある冬の寒い日、雪が舞っていました。 兄が、突然裏庭に流れる川に浸かって修行すると言い出したらしいのです。母は随分止めたらしいのですが、「体に鞭打たないと、強い精神力の持続が困難だ」と強行したらしいのです。 兄はいつも私に「人間の存在にとって精神と肉体とは切っても切り離すことが出来ない関係にある。片方だけを鍛えても人間本来の能力を引き出すことは出来ない」と言っていました。 私に分からせる為だったと思いますが、「昔の名だたる武将は、生死の恐怖を克服する為に武術の鍛錬を励む一方、心の修行にも余念がなかった」 「信長や秀吉や家康も?」と聞き返しますと 「勿論だ、彼等は恐らく、現代に生きていたら、何をしても成功する天才だった。彼等は戦争ばかりしていたのではなく、一方では日本文化の基礎を築いた人達でもあったのだ」 「昔の日本の武士は何事をするにも絶えず“自分の生死を賭けて”行動していた。女だってそうだ。夫がどんなに偉い人でも、否、偉い人であればこそ、ひとたび夫が死ぬ時は自分の命も失う覚悟を持たなければならなかったのだ」 戦後日本人は堕落したという人もいるが、兄は「そんなことはない。いざという時、自分の命を懸けてでも“やる”と言う日本人は必ずいる」 「お前も、今は分からなくても、何時か“そんな魂が自分にもある”と分かる日が必ず来る」と断言してくれるのでした。
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