ジョージ北峰の日記
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2011年03月08日(火) 青いダイヤ

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  私の兄弟はそれぞれ、個性豊かな才能を、それぞれの分野で発揮していました。しかし私には、運動神経が並外れているわけでもなく、又学問の領域でも、特に才能豊かな子供ではありませんでした。強いて才能があると言えば、音楽だったかもしれません。
  小学校の2年生の時だったか、たまたま他の小学校から音楽の先生が、私のクラスを教えに来て、歌を教えていました。
その先生が途中で突然、皆に「誰か一人でこの歌を歌える人?」と尋ねたのです。当時(先生は、生徒にとっては神様の様な存在でしたから)皆黙って俯いて(うつむいて)いました。
  ただN子だけは例外で、黙っている子ではありません。「ハイ」と手を上げたのです。先生が「君が歌うの?」と尋ねられると、彼女は私のほうを見て「いえ、私は、T君が上手だと思います」と指差したのです。突然ことで私は驚いて、顔は熟柿(じゅくしがき)の様に真っ赤になったと思います。私は子供ながらに「余計なことを!」と思ったに違いありません。
  すると担任と音楽の先生が、少し尻込みしている私を笑いながら指差して「それじゃ、今練習した“XXXX”をT君に歌ってもらいます」とピアノ伴奏を始めたのです。私は、仕方なく、赤い顔をしたまま、歌い始めたことを記憶していますが、何時の間にか先生は真剣な顔で私を聞き入っていました。私が歌い終わるや否や、拍手をしながら私の方を指差して「T君はこの歌を知っていた?」と不思議そうな顔で尋ねるのです。「いいえ」と答えますと、2人の先生は顔を見合わせて「この子は凄い。優れた音楽の才能を持っている」
  「まるで天使の声のようだ」と感心してくれたのです。みながガヤガヤ話し始めていましたが、音楽の先生は私に「将来、君は音楽家になると良い」と褒めてくれたのでした。
 
  少し自信のついた私は、家に帰って、この話を母にしますと、夕食後父が、「それじゃ、今夜はTに歌ってもらおう」と言うのです。私は嫌がるのですが、家族みんなが手をたたいて、歌うようにはやし立てるのです。
私が歌い終わると、母が「確かに美しい声だね」と、感心したようでした。しかし父は「今はいいが、男は声変わりをする。何時までも美しい声が出るとは限らない」父も子供の頃は、いい声が出ていたが、今は「この声だから」としゃがれた声で、私の出鼻をくじくのでした。「音楽よりも、勉強で身を立てなければ」と父が言いますと、母も即座に「その通り」と追認するのでした。
  唯一の才能かも知れない、私の音楽の才能は、そんな家庭の団欒話の中で消えていきました。

   私に残された道は「勉強する」ことだけでした。
父は、自分の体験や長兄の勉強の仕方をいろいろ教えてくれるのです。
父は、若い頃は次兄のように中学卒業後(旧制)、アウトローの生活をしていたそうですが(経緯はよく知らないのですが)母と結婚、父の才能を見抜いた母の薦めで一念発起し勉学に励み、旧制高校を受験(母は当時既に師範学校を出て先生をしていたらしいのです)、そして旧制高校、当時の帝大法学部を卒業したらしいのです。「何事もそうだが、勉強は集中力だ」と父は自慢げに話すのでした。
   長兄も父の指導の下で、随分頑張って勉強したと話していました。長兄は小学生4年生の頃までは普通の子だったが、5年生になって突然「カラスが鷹に化けた」と母は言っていました。母は「当時の父はそれこそ怖かったよ」と私に奮起させようと、囁くのでした。

   ところで、以前、私は兄が金魚を自在に動かしたこと、また試験勉強の仕方が上手なことを、お話しました。その理由について兄が興味深い話をしてくれたのです。

  「人間は他の動物にはない、判断力(理性)と呼ぶ特殊能力がある。それで行動原理を決定している。
  それは、分かりやすく話すと、人間の行動のプロセスに、まず感覚があり、感覚によって得られた情報を、理性が正しく判断して行動に移す。この情報を合理的処理する能力が人間の理性にあるのだ。
だから理性が狂うと間違った行動をしてしまう。

  今、人は感覚、理性に基づいて行動すると簡単に言ったが、人間が鋭い(と感じられる)行動をするには、実は理性よりも、感覚によって正しい情報を得ることの方が、もっと大事なのだ。
  例えば感覚力(情報を得る感覚をひとつの
能力と考えれば、単に感覚と言うよりは感覚力という言葉のほうが、適切かもしれない)について、例を挙げれば、同じものを見て、皆が同じものと見えているのか?
  例えば、鳩は目隠しして遠くへ連れて行っても、元に戻る能力がある。犬の嗅覚は人間よりはるかに優れていて、警察では犯人探しに役立っている。つまり同じ事、物を経験しても動物によって反応の仕方が異なる。
しかも、彼等の行動は理性による判断ではなく、彼等の特殊な感覚に基づいて行動しているのだ。
  この様に動物間では、感覚力に明らかな差がある。

   人間にだって物を観察する能力には差があるはずだ。
   
 例えば、予知能力も、色々意見があるが感覚力のひとつだ。だからある人は、多くの人には出来ない、未来のこと、見えない部分等を予知する能力を秘めているかも知れない。これは誰にも否定できないことだ。

   この感覚力には生まれつきの能力である部分と、生まれつきの能力に経験が加わって作りあげられる部分がある。例えば先ほど言った鳩の方向感覚は先天的な感覚力と言える。しかしニュートンが、リンゴが木から落ちる現象を見て物体間に引き合う能力(引力)に気付いたのは、彼は人一倍優れた天才的な感覚に、プラス彼の類稀(たぐいまれ)な理性が加わって得られた感覚力と言えるだろう。感覚力は、一部は理性の働きが相俟(あいま)って作られる部分があるのだ。
   天才か否かを決定しているのは、この新たに創られた鋭い感覚力に依存していることが多い。

  少し身近な例を考えてみよう。例えば数学の問題を解く場合、人のどんな能力を働かせているか?」
「思考力?」と私。
「思考力は勿論大事だ。しかし闇雲(やみくも)に、考えても何も出てこない。簡単に言えば、その問題が含む公理、や定理をまず正確に見極める能力(感覚力)、これこそが最も重要な部分なのだ。
  
  次にその公理や、定理を如何使うのかを考える、その時に、論理的思考力が必要になるのだ」
  「もし問題が解けなければ、自分が思いついた公理や定理が充分だったか、あるいは正しかったかどうかを吟味する。そして、もし偶然他の定理が必要だと思いついた時、そしてそれで問題の解決が出来た時、お前の感覚力は一段と進歩した(アウフヘーベン)と言えるだろう。
  もしこのとき問題解決のための新しい定理でも発見したら----その時は、もう立派な数学者だ」
   私には、当時兄の言う「感覚」の意味が難しく分かりませんでした。
  「公理や定理を思いつくことは、感覚なの?」
「そうだ。公理や定理は抽象的な概念だが、このような抽象的な概念を思いつくことも感覚なのだ。 
  思いつくことは判断ではないだろう? 例えば、あの人は数学的感性が優れていると言うだろう?あれは、数学的抽象的概念を、考えるのではなく、まるで映画の1場面のように簡単に思い浮かべる能力なのだ」
  「ただしこの感覚は、生まれついた五感のことだけをいっているのではなく、経験によって(勉強によって)自分の頭の仲に作り上げた理性的感覚について言っているのだ」
  「理性的感覚?」

  「そうだ。この理性的感覚に磨きをかけると、必然的に人の考えることが読めるようになる。難しい問題も簡単に解けるようになる。又科学の分野なら、新しい発見が出来るようになる。動物の考えていることも分かるようになるのだ!」
と、兄は言うのでした。


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