ジョージ北峰の日記
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10 兄は決して私に勉強を教えようとはしませんでした。まず、人間として生きていく為の自覚とか覚悟を教えようとしていたのだと思います。 長い人生で遭遇する色々な出来事に対して「自力で考え、自力で如何対処すれば良いのか」を考える姿勢を私に教えようとしていたのでしょう。
しかし私は、兄と一緒に生活するようになってからも相変わらず、友達と道なき山林に分け入り、木登りをして、木が撓(たわむ)のを利用して、まるで猿の様に木から木に飛び移り、木の実を取ったり、沢登をして木苺を食べたり、魚釣りをしたりして遊んでいました。時にサルや、鹿に出くわすこともありました。時に番犬に追っかけられて、命からがら逃げたこともありました。あるいは小学校の4年生のころには、ませた子供達がいて、子供はどうして出来るのだろう?などと、とんでもない議論することもありました。勿論そんな話は、皆興味深そうではありましたが真剣ではありませで。しかし今から考えてみると、かなりいい線の推理?が出来ていたように思います。 その年頃になると、誰もが異性に対してある種の感情が芽生え始めていたのかも知れません。勿論私にも憧れの少女がいました。しかし彼女は私にとって神聖な存在で、性の話を絡めて考えることはとても許されないことのように思えるのでした。そんな腕白が抜け切れませんでした。
しかし兄と生活を共にしているうちに、私にも勉強に対する自覚が少し出てきたのか、夕食後は自分から進んで勉強する習慣がつきはじめました。以前は9時ごろには寝ていたのですが、その後夜11時頃まで起きて勉強をするようになりました。「時間を有効に使えば、自分の力で何かが出来る」ことの喜びが少し分かるようになってきたのです。 当時母が保護者会に参加した日、私に「自覚」が出来たようだ、仲間からも尊敬されるようになってきたと先生が褒めてくれたそうです。
ある日、兄が映画に連れてやろうと誘いました。当時は勿論テレビはありません。「映画をみる」のは、時々夏休みに小学校の運動場で無料の野外映画大会で見る程度でした。 その日、兄はたまたま家庭教師をしていた学生の家から映画の招待券もらったらしいのです。 私は映画館に行くのは始めてでした。ドキドキ胸をときめかして真暗闇の映画館は入った時の様子はいまも鮮明に記憶しています。
映画は、戦争映画で日本の敗戦の様相が濃くなり、日本が特攻隊をやむなく敢行するくだりの話でした。主人公はベテラン戦闘機乗りで、若い特攻隊員を連れて出撃していく様子を描いた話でした。私が感激したのは、その隊長が「特攻」に直面しているのに、恐れる様子もなく若い特攻隊員たちに 「出撃するからには、お国の為に敵戦艦を絶対に沈めなければならない。敵も必死で反撃してくるから、簡単ではない。その為には、お前達は最後まで俺から放れずについて来い。必ず成功させてやる。だから今夜はゆっくり休め」と笑顔で話す態度でした。若い隊員達も緊張した面持ちで、泣き言を言うこともなく、凛々しく敬礼するのでした。映画館のあちこちからすすり泣く声が聞こえていました。 私は、子供ながらに「大人になれば、こんな風に笑顔で死ねるのだろうか?」と頼もしく思えるのでしたが、自分にはとてもそんな勇気はありませんでした。だから一層感激したのかも知れません。
帰り道、兄は人の「死の代価」について話していました。あの状況下なら、自分の命を投げ出すのに充分な価値があるだろう、と話していました。すると高校生は「しかし結局、戦争に負けたのだから無駄死だったのでは?」と反論したようでした。しかし兄は「彼の(隊長)名前は日本国がある限り、忘れ去られることはないだろう」と、「戦闘機乗りとして戦い続けることも出来ただろうが、その為に撃墜されたとしても、誰も彼の業績を知る人はなかっただろう。しかし彼の死は日本人の心に深く突き刺さる出来事だった。彼の純粋な心は、誰にでも理解されることではないだろうが、しかし少なくとも敵国は、何処かで日本人は馬鹿に出来ないと恐れるだろう。日本人の心意気を名刺代わりに突きつけたことになる」と言うのでした。 しかし、兄は、その後の日本の特攻攻撃が正しいかったと考えてはいないようでした。 ただ兄は一人の人間が死を賭(と)してする行為の代価について話したかったのだと思います。その後、何年か経て有名な作家が切腹自害した時も、彼の「死の代価」について、いずれ歴史が評価することになるだろうがと、少し疑問を投げかけるのでした。
しかし兄は人間の「死の代価」を厭わない自己犠牲こそ、人の真の倫理的判断に基づく崇高な行為と考えているようでした。
「人間は皆、何等かの目的を持って生まれてきている。その目的を果たさずに死ぬことは許されない。だから自己の死は他人からの影響ではなくて、あくまで自分自身が正当と判断した場合でなければ、つまり自分の生の論理と矛盾しない死、自分にとって死の必然性がなければ意味がない---」と議論するのでした。 後(のち)に分かったことですが、兄は、自分の「生きている意味」は、自分自身で見つけることだと私に教えたかったのでしょう。 生きる行為は実は「常に自らの死を代償にできるほどのものでなければ意味がない」と言いたかったのでしょう。 つまり「ふらふら生きるんじゃない」と---
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