ジョージ北峰の日記
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2002年09月17日(火) |
政治と政治家-4 つづき・・JF ケネデイー |
しかし次の瞬間、事の重大さに気づいた。その時の皆の驚き、それこそ筆舌に尽くしがたい呆然自失の驚きであった。矢張り想像していた通りの悲劇が起こってしまった・・・すべての人が我と我が目を疑った。テレビは何度も同じシーンを再生して事態の検証をした。しかし、間違いなく何処からか飛んできた弾丸が大統領の頭に命中していたのである。もはや、生の望みの皆無であることを認めざるを得なかった。なんという無残、誰がこんな無法なことをしたのか! その時の人々の驚きと怒り、悔しさは、今でも生々しく思い出すことが出来る。若く、何かとてつもなく大きな事をしてくれそうな、そんな期待と夢を人々に与え続けた大統領の命、それはその瞬間に消失してしまった。 誰に怒りをぶっつけたらいいのか分からない苛立ちのまま時間は経過していった。 それ以後、ケネデイー暗殺についてのドキュメンタリーや映画が何本も製作・発表された。しかしいまだにその真相は闇の中である。 こんなに話題になった大統領、いや政治家はローマー帝国のユリウス シーザー以来知らない。ケネデイーこそ20世紀に実在した本当の政治家中の政治家だったと言えるだろう。 ケネデイーのような有能な政治家が誕生する過程は、並々ならぬ厳しい教育、本人の才能と運、そして周囲の暖かい目等、色々な条件が重なって可能になったのだろうと思う。しかしなによりも本人の自覚と努力、そして周囲の人々が立派な政治家を育てようとする積極的な意思が必要だったのではと考える。 彼にみる理想的な政治家像、それは人々に大きな夢を与えること、そして実現の道筋を語ること、人間として勇気があり、決断力があり、説得力があること、その上に人から無条件に愛される人柄があり、そしてその基礎に誠実さと知性があること。単に実務的に優秀なだけでは立派な政治家とは言えないだろう。 現在の日本を省みるとき、いまだに世界に誇れる政治家の名を思い出すことが出来ない。最近、この国の政情を省みるとき、本当の近代国家と言える体制、三権分立が育っているのだろうか?と疑問さえ浮かぶ。 どうすれば日本は本当の意味での近代国家に生まれ変わるのだろうか? 例えば議員内閣制は日本の風土に染まると汚職を際限なく繰り返す制度になってしまう。この国では、むしろ行政府と立法府を別々選挙で選ぶ大統領制のほうが、たとえ一時的にお金がかかったとしても与党同士の馴れ合い政治を防ぐ上で有効な手段になるのではないだろうか。又、最近よく話題になる国家と地方の関係についても、地方分権の強化といった生ぬるい手段を考えるより、個性の異なった州(藩でもよい)からなる連邦国家制を考える人達(党)が出現してもよいのではないかと考える。農業州、工業州、ハイテク州など、それぞれ個人の人生観にしたがって住む州を変えることが出来る。勿論、税制も州ごとに異なる。そんな州からなる連邦国家日本! 又裁判制度もプロの人達の手に任せるだけでなく国民自らが自分達で人を裁く、つまり自己が陪審責任を負う陪審員制度を学んだほうがよいのではないか、など。日本人の性格、経済規模に合った国家体制の再構築を真剣に考える政治家集団を育成する・・など、この国が政治的に成熟した国家として、よい政治家を世界に送り出すにはなお乗り越えなければならない何段階ものハードルあるように思う。しかしそのようなハードルが高いということは、まだまだ日本にもやらなければならない、山積みの試練があるということ、そういう意味ではやりがいのある夢いっぱいの国家といえるのではあるまいか。
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