与太郎文庫
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2006年04月22日(土) |
焦点の星 〜 お後がよろしい 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060422 最後の司会を終え、記者会見では、すこし長めのあいさつをした。 56歳から透析をしていたので、あのとき退めていてもよかった、と いうようなことを、しみじみとまじめに語る。 おそらく、この噺こそが、彼の高座人生における最高傑作となった。 代表作《目黒の秋刀魚》では、裏返したタイを見て、殿様が言う。 「もういっぺん紅葉を見ようか?」「はなから分ってたんじゃねぇか」 >> 73歳円楽、落語人生に終止符 「笑点」収録後、記者会見で頭を下げる三遊亭円楽(撮影・神戸崇利) 落語界の大御所・三遊亭円楽(73)が22日、現役引退の意向を明 かした。この日、23年間司会を務めた日本テレビ系人気演芸番組「笑 点」(日曜午後5時30分)の卒業会見が都内で行われ、「落語をやる のは無理な気がする」と引退を示唆した。66年「笑点」スタート時の メンバーで、私財を投じて寄席「若竹」を開場するなど、昭和から平成 の落語界をリードした。しかし、昨年10月に脳梗塞(こうそく)で倒 れ、落語を演じるのに限界を感じたため、第一線から退く。 引退発言は突然飛び出した。66年5月15日の番組スタートから出 演し、83年からは4代目司会者を23年間も務めた「笑点」からの卒 業会見で、今後の活動を聞かれた時だった。「かつて(8代目)桂文楽 は、高座で固有名詞を忘れて『勉強し直してまいります』と言って、引 退した。私もこれからもう1度落語をやるのは無理な気がする。私の噺 (はなし)は28日にDVDが出るので、それを聞いてください」と、 落語家としては現役引退の意向を明かした。 円楽は昨年10月に軽い脳梗塞で倒れ、「笑点」の出演を休んだ。今 年3月に番組冒頭に出演する「案内人役」で復帰したが、倒れる前とは 違うことを自覚していた。この日も「以前は番組のスタッフの名前は全 部覚えていたけれど、今は忘れてしまった。でも、大喜利メンバーはほ ぼ覚えていますよ」と言いながらも、新メンバーの春風亭昇太の名前が 出てこず、たまらず昇太が名乗る場面もあった。「固有名詞が本当に出 てこなくなった。ここらが引き時と思いました」と打ち明けた。名人と いわれた文楽と同じように、一線を退く道を選んだ。 円楽の体は満身創痍(そうい)だった。腎不全のため、56歳の時か ら人工透析を週3回、1回4時間受けていた。さらに義歯の不具合のた め義歯を十数個も持つが、かみ合わせが悪く、落語家の命ともいうべき 口跡を保つのに苦労していた。血圧も低く、80を切った時には2度も 臨死体験をしたという。「死ぬ練習を2度もやったので、死ぬことは怖 くなくなりました」。 会見前には「笑点40周年だよ!スペシャル!」(5月14日午後5 時半)の収録が行われ、大喜利で5代目司会に決まった桂歌丸(69) の助けを借りて最後の司会を務めた。円楽は「さらば」と別れのあいさ つに対しての返答を問題に出しながら、会場のファンに卒業を報告した。 円楽は「振り返ってみて、運がいい人生だった。『笑点』を見ている と、こんなに楽しい番組はない。長く続けていかなくてはいけない」と、 残されるメンバーに思いを託した。高座、テレビから姿を消し、今後は 一ファンとして「笑点」を見守りながら、孫弟子ら後進の育成に乗り出 す。 ◆三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく)本名吉河寛海(よしかわ・ ひろうみ)。1933年(昭和8年)1月3日、東京都生まれ。55年、 6代目三遊亭円生に入門。58年、二つ目昇進。62年、真打ち昇進で 5代目三遊亭円楽を襲名。78年、落語協会脱退し、三遊協会を設立。 翌79年に大日本落語すみれ会(後に円楽党と改称)を結成。83年か ら「笑点」大喜利の司会。受賞は77年芸術祭優秀賞、79年放送演芸 大賞、88年芸術祭賞など。十八番は「宮戸川」「目黒のさんま」「芝 浜」「淀五郎」「大山まいり」「鮑のし」「薮入り」「鼠穴」「茶の湯」 「野ざらし」など。著書に「円楽、親父を叱る」(81年)など。家族 は和子夫人と1男1女。毛利家の家臣で、鳥取城防衛で有名な吉川経家 の末えいを名乗る。 ── 《日刊スポーツ 20060423 06:45》 << ── 三遊亭 円楽《笑点 20060422(日)17:30-19:00 日本テレビ》 ── 《ザ・ワイド 20060424(月)13:55-15:50 日本テレビ》草野 仁 http://www004.upp.so-net.ne.jp/greenhill/shoten/shoten_histry.htm ── 《笑点年表 19650312-20041226 笑点研究所》 作成日: 2006/04/24
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