与太郎文庫
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2003年03月15日(土)  三・一五

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030315
 
── 「君主制」の問題は、日本の共産運動史にとっては重要でありな
がら、一面、困難で、やっかいな主題だった。なぜなら、日本では天皇、
皇族に関する罪は否応なく死刑となる。幸徳秋水以下十二名が殺された
のも、「大逆罪」にひっかけられたるが故だ。山川、荒畑といった人々
の幸徳らの柩を見送った眼には、天皇制廃止問題となると、たじろがざ
るを得ないのである。主義と現実問題とがここで乖離する。
 市川会議でコミンテルンから持帰った綱領草案の審議が延ばされたの
も、一にこの項がひっかかったからである。
 さて、その草案を決定する会議は、大正十二年三月十五日(奇しくも
三・一五)、東京府下石神井の料理店「豊島館」で行われた。出席者は
前の顔ぶれとほぼ同じである。              (P215)

 三月十五日午前五時、前日から極秘裡に指令を受けていた三十数班の
特高、外事の両課員は、それぞれ指定の場所に集合して、そこで初めて
班長から、日本共産党員逮捕の任務を言い渡されたのである。(P248)

 このときの起訴には、初めて治安維持法が適用された。それまでは治
安警察法だったのが、思想犯に対しては手ぬるいというので、大正十四
年に本法の成立が強行されたのである。(略)この治安維持法の内容は、
「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的とする種々の行
為」の罰則を規定したもので、この法の適用によって三・一五で起訴さ
れた者は四百八十四名におよんだ。            (P252)

 これら大物の就縛や最期は、三・一五後のことではあるが、当時、共
産党員は、「三・一五、恨みの日々……」という歌をうたって、さらに
闘志をかき立てた。                   (P270)

── 松本 清張《昭和史発掘(2)三・一五共産党検挙 19821015 文春文庫》


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