与太郎文庫
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1992年08月15日(土)  八月十五日の熱月抄

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920815
 
 六十年輩の日本人に「どこで玉音放送を聞きましたか」と問えば、ふ
だん寡黙な人も口をひらく。われわれが国家存亡に直面した日付は、聖
母マリアの命日であるとともに、ナポレオンの誕生日でもある。
 
 ルネ・クレール監督《巴里の屋根の下》の主題歌につづいて《巴里祭》
を連想する世代は、八十年輩の映画ファンでなければならない。邦題の
傑作例であって、原題は《 Quatorze julliet ; le 14 julliet 》すな
わち「七月十四日」である。
 フランス革命を「一七八九・七・十四」と暗記した世代を戦中・戦後
派とすれば、近年の受験世代では「バスティーユ牢獄の政治犯を奪還解
放した日」と散文的に記憶する。革命の全貌は、火曜日の襲撃だけで語
りつくせないのである。
 革命前のフランスでは「八月十五日」が教会暦のさだめる第一級大祝
日「童貞聖母披昇天」すなわち、キリストの生母マリア( -19ca0908 〜
? 0815 )の命日にあたる。
 革命の目標は、カトリックの宗教的支配からの脱却にあり、その中央
集権性が新興階級プチ・ブルの障害だった。まずは列国にならって教会
の国有化に向うのである。
 あるいは、ローマ帝国が創始した十五年ごとの徴税周期「インディク
ティオ」が、百回( 312/537 〜 1797 ) におよぶことを阻止した経済動
乱ともいえる。
 後年のソビエト共産革命では、すべての宗教を禁じたが、このたびの
連邦崩壊からロシア正教会のユリウス暦と、イスラム教の礼拝が、非公
式ながら復活している。
 フランスの「八月十五日」は、かくして教会に封じられたあげく、あ
らたな独裁者ナポレオン( N.Bonaparte,17690815 〜 18210505 ) の誕
生日としても国家的祝日に返り咲くことはなかった。
 フランス史上、空前の人気をもつ英雄は「ヴァンデミエール (葡萄月)
の将軍」として《革命暦 40113F/17951005G 》の日付で登場する。革命
政権は、グレゴリオ暦の宗教的色彩を拒否、独自の暦法による共和紀元
( 10101F/17920922G 寛政 40707 ) を実施 ( 20304F/17931124G ) して
いた。
 実は、旧来の何ものにも依存しないはずの《革命暦》とは、史上最古
の暦をコピーした偽装新暦だったのである。一年を四季に分け、秋(葡
萄・霧・霜)冬(雪・雨・風)春(芽・花・草)から、夏(収穫月・熱
月・実月)にいたる各月は三十日で、年末に五日間(閏年は六日)を加
えて休日とする。七曜を廃し、一旬十日(旬末休日)と数えて年間休日
数を短縮、 3×12 +5 + 1/4 = 41.25 日となる。
 きっかり十三日先んじれば、古代の夏至年初《エジプト暦 -27810626G》
に閏年を置いた《アレクサンドリア暦 -250827G 》に一致する。現在で
も《エチオピア暦》として継承されている。
《エジプト暦》こそが太陽暦の母であり、春分年初の《ペルシア暦》や
《パーシ暦》は置閏法をアレンジした外孫である。
 皇帝アウグストゥスの誕生日、すなわち秋分年初の《小アジア暦》も、
ローマ紀元 7450923R/-80924J/0926G その後の変遷は不明ながら、千八
百年目の復活にあたる。
 
 フランスならではの叙情性として文学的に評価される名称も、三カ月
ごとに語尾の音韻をふむ趣向は、さほど非凡ではない。
 花鳥山水を配した花札《天正かるた》の「松・梅・桜・藤・菖蒲・牡
丹・萩・薄・菊・紅葉・柳・桐」と変るところがない。
 一年の季節区分も、ナイル河の水量から「洪水・芽生・収穫」の三期
に類似する。 洪水周期が四年ごとに一日おくれる現象は狼星「シリウ
ス」の観察で予測された。
 このシリウス周期を加えて分解すれば、
3{(6+6)(6×5)+5}+{(6+6)(6×5)+6}=1461 つまり一旬十日の原型は、
六日週と五日週とみられる。後年ソビエトでも、五日週( 1929〜31 )
六日週( 1932〜40 )を実施するが、結局《ユダヤ暦》に由来するという
七日週に復帰している。
 では誰が、古代暦法を思いついたのか。
 エジプト遠征のナポレオンは「四千年の歳月が我々を見ている」と叫
んだというが戦場の発想にしては周到すぎるのである。
 旧体制から外務大臣となったタレーラン( T-Perigord,17540213 〜
18380517 ) はメートル法による国際統一を提唱した結果ついに英米の
ヤード・ポンドを出しぬいている。この先見性と外交手腕が、フランス
の工業経済を今日まで支えるのである。
 地球の円周の四千万分の一を長さの単位とする「十進法」の度量衡規
格は、時刻にも適用された。つまり《革命暦》の一日は十時間であり、
一時間は百分、一分は百秒となる。さすがに、この時法は手にあまり、
皇帝となったナポレオンがローマ教皇との和解をかねて《革命暦》とも
に放棄する。
 その最後の日付はあいまいで、共和紀元14雪月0410F/18051231G 文化2
1111 または14実月12+5F/18060921G 文化30810 実情はなしくずしという
ところか。
 もと徴税請負人の前歴で、ラヴォアジェ( 17430826〜17940508G 共和2
花月0819F)は処刑されるまでの九カ月間、度量衡委員として、獄中から
実験室に通いつづけた。
「質量保存の法則」はじめ「生体熱は呼吸の緩慢な燃焼による」など、
いずれも霊魂の不在を立証する成果である。ギロチンで首と胴がはなれ
ても、その業績の質と量は不滅だが、革命裁判は「共和制に学者は無用」
と判決、民衆も血祭を楽しんだ。
 軍人が皇帝になるという俗物趣味の中で「人権宣言」や「法典」を編
みだすという矛盾の頂点に、英雄は君臨したのである。
 矛盾に目をふせた英雄は存在しない。
 阿南惟幾 ( 18870221 〜 19450815 ) は最後の御前会議でも戦争継続
をとなえた。陸軍大臣として、部下のクーデター計画を知りながら、割
腹の儀式を選んだ。遺書の「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」とは、矛盾に屈
した無念の独白である。                (19920425)


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