与太郎文庫
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1987年10月04日(日)  来賓祝辞 〜 YMK三君の披露宴 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19871004
 
 住谷 悦治 経済思想史 18951218 群馬 京都 19871004 91 /同志社総長
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050923
 点鬼簿 〜 与太郎の過去帳 〜
 
 ◆ Y君の巻
 
 ほとんどの場合、人品骨柄は一目で判別できるものだ。
 しかし、万が一はずれることもあるので、心ある者は沈黙する。
 与太郎の生涯で、もっとも風格を感じた知識人のエピソードを記す。
 
 同志社の同期生には、あきらかに優秀な者と、あきらかにそうでない
連中が混在している。優等生にも人格いやしい者もいるが、劣等生には
見るべきものが少ない。
 
 しかし、おおむね裕福なので、能力以上の見栄っぱりも多い。
 とくに結婚披露宴では、友人が少ないのに、来賓が大物だったりする。
 その日は、数万の学生を擁する立場にある総長が、なぜか現われた。
 
 こういう人は、うっかりすると毎日のように招かれるにちがいない。
 同志社の教師たる者は「徹頭徹尾、生徒を愛せよ」とあるらしいので、
成績のランクによって差別するわけにいかないのであろう。
 
 ◇
 
 つまり「こんなヤツが?」という手合いにも、なにか断われない事情
があるらしく、総長の姿を見ることになる。
 Y君の披露宴は、あきらかに身分不相応だった。
 
 与太郎は、Y君の小学校以来の友人としてでなく、カメラマンとして
雇われていたが、母上に「ちょっと、写真屋さん」と呼ばれて、ムッと
した(お母さん、それはないでしょう、と云いたいのをこらえた)。
 
 ほかに友人と云えば、司会をつとめるU君くらいで、これでよく一流
ホテルに百人も集めたものだと、あとになって舌を巻いた。
 開宴時間が迫るころ、与太郎は総長に呼びとめられた。
 
 もとより与太郎は、総長の講義を受けたわけではない。
 総長を間近に見たのも初めてである。
 しかるに総長は、一瞬にして与太郎を新郎の友人と認めたのである。
 
 ◇
 
「きみは、Y君の友人かね」「そうです」「新郎のことを、教えてくれ
ないか」「はい」「どんなスポーツをして、得意科目は何だったかな」
 さすがの与太郎も、返答に窮したが、知らないとは云えない。
 
 なかば当てずっぽうに「テニスをやってまして、得意科目は英語です」
と答えると、総長は、おもむろに手帳を取りだして書きこまれた。
 そして「どうもありがとう」と会釈して、悠然と壇上に向われた。
 
 たった一言のメモをもとに、総長の祝辞がマイクを通じて始まった。
 列席者の誰一人として、その内容を疑う者は居ない。
 風格おそるべし、与太郎は、すっかりおそれいった。
 
 下記の写真を見れば、その質実剛健の人柄が伝わってくる。
http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/bunmei/gunma18/ikeda.htm
 安中教会&住谷天来の生家(画像)
 
 ◆ M君の巻
 
 M君の来賓は、ゼミの教授だった。
 教授の祝辞は、ものなれた口調で始まった。
 しかし、よく聞くと、とんでもない辛辣なウィットにあふれていた。
 
「せんだって、M君から電話があって、披露宴でしゃべってくれという。
いちおう引きうけたものの、すぐに顔を思いだせないので、卒業年度と
名前のメモをたよりに、当時のアルバムをひろげてみた」
 
 ところが、記念写真を見ただけでは思いだせないので、直接会ったら
思いだすだろう、と考えて、きょう来てみたが、やっぱり思いだせない。
しかし、本人が覚えているのだから、たぶんわたしの教え子なんだろう。
 
 新郎の成績も、まったく記憶がないので、可もなく不可もなさそうだ。
 そんなわけで、わたしは覚えていないが、とにかくメデタイらしい。
 しまらない話だが、新郎新婦、どうか幸せになってもらいたい、以上」
 
 この先生の祝辞は、どこからどこまでがジョークなのか分らないが、
まさか大真面目というわけではないだろう。
 たぶん、誰に頼まれても同じ調子で、同じように述べているはずだ。
 
 ◆ K君の巻
 
 やたら政治家や名士の多い披露宴もある。
 いつも選挙カーに乗ってお辞儀している人が、どうしてエライのか、
そういう連中を招いて、なにが自慢なのかも分らない。
 
── K君の結婚披露宴(都ホテル)では、8ミリ撮影する与太郎が、
用意された食事を断わったところ、アシスタントに来ていた(後輩の)
W君が、ひとり別室でフルコースをあてがわれた。
 
 ウエイターがつききりで、フランス料理の作法を教えてくれたという。
 後年フランスに定住することになった彼は、このとき中華料理だった
ら、北京音楽院を出て上海交響楽団で働いていたやもしれぬ。(略)
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070320
── 《シンフォニエッタ50周年記念誌 20070320 Awa Library》P28
 
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(20070721)
 


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