与太郎文庫
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1981年08月22日(土) |
向田家の人々 〜 字のない葉書の姉 〜 |
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向田家の人々 〜 字のない葉書の姉 〜 向田 邦子さん没後40年 妹・和子さんが明かす素顔とは? http://a.msn.com/01/ja-jp/BB1ez19c?ocid=st TOKYO FMのラジオマン・延江 浩さんが音楽とともに社会を語る、 本誌連載「RADIO PA PA」。「向田 邦子さん」について。
向田 敏雄 邦子の父 1904‥‥ 東京 196902‥ 64 /東邦生命保険幹部 ♀向田 せい 邦子の母 1908‥‥ 東京 2008‥‥ 100 /旧姓=岡野 梅三の娘 ♀向田 邦子 随筆・脚本 19291128 東京 台湾 19810822 52 /航空事故/第83回直木賞 竹脇 無我 俳優 19440217 千葉 東京 20110821 67 /昌作の三男 [A] http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19591109 …… 邦子の弔辞を読んだ無我は、その命日の前日に亡くなった。 ♀向田 和子 邦子の末妹 1938‥‥ 東京 /1978-1998「ままや」経営 ♀向田 廸子 邦子の次妹 1935‥‥ 東京 /《字のないはがき》 向田 保雄 邦子の弟 1931‥‥ 東京 / https://straw-wara.net/today01/birth-1219.html 市川 三郎 放送作家 19021219 東京 19661016 64 /コント http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BB%D4%C0%EE+%BB%B0%CF%BA
…… 雄鶏社に採用され、雑誌『映画ストーリー』の編集に従事するか たわら市川 三郎のもとで脚本を学ぶ。 …… グルメとしても有名であった。料理も得意で自炊したが、著述活動の 傍ら「女性が一人でも気軽に寄れるお店を作ろう」と、妹の和子と港区 赤坂で小料理屋「ままや」を開店、死後も妹の和子によって営業が続け られ、1998年に閉店した。── 向田 和子《かけがえのない贈り物》。 ── 向田 和子《向田 邦子の恋文 20050728 新潮社 20111023 新潮文庫》 http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4101190410 …… 留守番電話を早い時期に導入していた。機械に慣れない人々が面 白いメッセージを多く残したが、中でも秀逸は黒柳 徹子で、一分/一通 話のシステムでは足りなかったらしく、特有の早口で九通話連続で吹き 込まれていたというものであった。しかし用件には全く触れられておら ず「後で直に会って話すわね。」という楽しいオチであったため、消去 せずに保存して来客に聞かせて、もてなしの一つとしていた。 幼少時より虫が大嫌いだった。虫偏の漢字も嫌いだったが、唯一「虹」 だけは好きだった(『クイズダービー』でこのエピソードが出題された)。 遅筆、乱筆で有名であり、切羽詰まると「四」の字を横棒4本で済ま したという逸話がある(Wikipedia)。 (20111023)(20210314) …… 向田 和子さんに取材でお会いしたのは雨降る冬の午後だった。 向田 邦子さんの妹で、飾らない口調と笑顔が素敵な方だった。向田家 が杉並に住んでいた頃の飼い猫を「東大出」と呼んでいたことを知った。 本名はロク。賢いロクは目ざとく外に飛び出てしまうから小型犬用の首 輪をつけ散歩に連れ出すことにした。発案は姉の邦子。「姉は夜10時過 ぎに仕事から戻ると、『お前は東大出だろ、早く道を覚えなさい』なん て言いきかせて(笑)」。でも隙を見て逃走してしまう。「おーい、ど こ行った東大出、と呼んでも帰って来ない。3日目の夜11時過ぎに帰っ てきてほっとしたことも。泥だらけになって帰宅のロクに『和子、何と かして』って言われ、猫用ソックスを編んで紐をつけてはかせたらロク は嫌だ嫌だってタコ踊り。『ほんとに和子はバカだね』って姉は大笑い。 ちょっとした、どうってことのない話を面白くするのが姉でした。つま らないことも楽しくまじめに。姉はおっちょこちょいでもあった」 高円寺の恋人にも邦子はそんな話を披露していたのだろうか。恋人の 撮った横顔がデザインされた旗がはためく青山のスパイラルに向かった。 「向田 邦子 没後四〇年特別イベント『いま、風が吹いている』」 のプロデューサー、テレビマンユニオン合津 直枝さんは、「『ゼロに なったら力が湧く』。そんな邦子の言葉が今のコロナの時代に響く。 向田さんの小説やエッセイは今も読まれ続けているし、開催の意味が あると思いました」 時を忘れ、長い間会場にいたのは居心地が良かったから。邦子の抜群 のセンスはグリーン、ブラウン、ネイビーと色違いで揃えたエルメスの ポロシャツを観ればわかった。ケニア旅行で被った麦わら帽子と茶と黒 のバリーのパンプスも。そして直木賞授賞式に着た水玉のワンピースに 藤田嗣治のリトグラフ、池波正太郎や沢村貞子の本……。 「姉はものすごくいいものを着ていた。(略)普通の人の、三倍は服に かけていたと思う。『ほかの人が、三年しか着ないのなら、私は十年着 るわ。気に入ったらとことん着る』」(向田 和子『向田 邦子の青春』) 流れる勢いの直筆の脚本は文字がアイデアを追いかけているようだっ た。邦子の声も初めて聴いた。「向田でございます。私、ただ今出かけ ておりまして、これは録音テープでございます」。少し高く、早口なの は東京っ子の証。それを和子さんに話すと「正直に言って、スカしてい るのよ」と笑った。 合津さんは一度だけ邦子と話したことがあるという。女性の転職情報 誌『とらばーゆ』の企画で電話したら本人が出た。「三つの小説で直木 賞受賞、働く女性としていかがですか?」と訊ねると、「あ、私、そう いうことには全く興味ありませんの。ごめんくださいね」とガチャリ。 「ものの三秒で終わっちゃった。でも男だから女だからで仕事をしてき たわけじゃないと、気づかされました」 向田 和子さんは会期中、毎日会場に顔を出した。「若い方が勇気を 出して私にちょっとお話ししていいですかって声をかけてくれたり、ファ ンの方が姉の言葉を全身に受け止めてお帰りになった。素敵な11日間で した」 和子さんとの話が終わって外に出ると雨は止んでいた。亡くなるまで の10年余り、向田 邦子が暮らした南青山の夕日はまばゆく、すがすが しかった。 延江 浩 1958‥‥ 東京 /慶大卒/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデュ ーサー /国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員 /小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー 部門グランプリ /日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞/Nobue, Hiroshi ※ 《20210319号 週刊朝日》 〔〕 …… 先にお辞儀をするな。みんなが頭を下げるのを見渡してから、 ゆっくりと頭を下げなさい。(向田 敏雄) (1969)2月に満64歳で病没。逆算すると、おそらく明治37年(1904) 生まれだったろう。高等小学校卒業後、保険会社に給仕として入り、誰 の引き立てもなしに、会社はじまって以来といわれるほどの昇進をし、 地方支店長をつとめていた。そのため転勤が多く、家族もついてゆくの で、必然的に子供たちも転校を繰り返した。 小学校だけで、宇都宮、東京、鹿児島、高松(香川)と4回変わった とは、後年の長女の弁。長女の下には、ふたりの妹とひとりの弟。4人 姉弟だった。 新しい学校へ初めて登校しようという日、朝の食卓で、気の重そうな 子供たちに向かって父・向田 敏雄は演説口調で言う。 「しっかりご飯を食べてゆけ、空きっ腹だと相手に呑まれるぞ」 つづけて掲出のことばを口にし、さらにこう付け加える。 「いじめられるかどうかは、この一瞬で決まるんだ」 お辞儀ひとつでも、とらえ方によってはなかなかに奥深いものがある。 夏目 漱石は小説『虞美人草』の中に、「人間の誠は、下げる頭の時間 と正比例するものだ」という一文を綴り込んでいる。 実際には、登校した向田家の子供たちは、教壇の横に立って先生の紹 介を受け、「礼」の号令で、座席にいる子供たちと互いに頭を下げ合う のが普通だったから、父の助言が取り立てて役に立つことはなかった。 むしろ、このことばは、本人自身に言い聞かせるような内容を含んで いた。それを知っていて、一席ぶった向田敏雄が御不浄へ行くため朝食 の席を離れると、彼の母と妻はこんな会話を交わしていたという。 「自分のこといってるよ」「聞こえますよ、おばあちゃん」 新任の支店長は、転校生以上に気苦労も多かったのだろう。 この母が亡くなった通夜の晩、向田 敏雄は自宅玄関前にざわめきと ともに「社長がお見えになった」という声を聞いた。向田 敏雄はすぐ にすっ飛んでいって、その場に平伏するようにお辞儀をした。普段、家 庭では暴君のように威張り散らしている様子からは想像できない姿だっ た。それを目撃した長女は、のちに綴る。 「葬式の悲しみはどこかにけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残っ た。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜 のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の 時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今 でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」《お辞儀》 すでにお気づきの方も多かろう。長女の名は向田 邦子という。 矢島 裕紀彦 作家 1957‥‥ 東京 /ノンフィクション。スポーツ、 文学、など様々のジャンルで人間の足跡を追う。 ── 《心を癒す漱石の手紙 19‥‥‥ 小学館文庫》 《漱石「こころ」の言葉 19‥‥‥ 文春新書》 《文士の逸品 19‥‥‥ 文藝春秋》 《ウイスキー粋人列伝 19‥‥‥ 文春新書》 矢島 裕紀彦・監修《夏目 漱石 100の言葉 19‥‥‥ 宝島社》 矢島 裕紀彦《日めくり漱石 2016‥‥ サライ.jp》夏目 漱石の日々の事跡を年間連載。 https://serai.jp/hobby/169694 〔medical〕 https://www.youtube.com/watch?v=0DVTc5Zlalo(20211222 19:16) 10回脚を振るだけで1万歩のウォーキングより寝たきりのリスクは 半減します!(笹原 健太郎) メンデル以前の神秘性を示す“万世男系”は、歴史的に意義はあるが、 いまや遺伝子の法則が判明したのだから、厳守すべき理由にはならない。 むしろ“日はまた昇る”“月は沈まず”のような比喩表現にすぎない。 天動説が、古代から永く信じられてきたから、地動説は採用できない ということにはならない。 (20220106) ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘ YMDay(20221019)last up dated.
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