与太郎文庫
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1953年07月16日(木) |
転才 〜 くもとハチのはなし 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19530716 >> ガラス戸のくもの話 金谷 昭良 何時かこんな事を本で読んだ。それは誰が書いたのかということも忘 れている。 「私が或朝、一匹のくもを見付けた。ガラス戸とガラス戸の間に、どこ からも、出られなくなっているくもを……。子供達に“来てごらん。く もがこんな所にいるよ”子供達は奥の間から飛んで来て、不思議そうな、 おそろしそうな顔をして、じっと見つめていた。……」 日中家に居る私は、便所へ行く時には必ず、このくもを見た。くもは じっと動かずにガラス戸のあわさで待機していた。驚きもせず、あわて ず、ガラス戸の中で身動きもせずにいた。家中で夕食を摂りながら“あ のくもはあのまゝで何日位じっとしているだろう。あそこにいるとまづ 外へはでられまい。お腹もすいてくるだろうし、外へ出ようと思ってガ ラス戸の中であばれ出すだろう。しばらくあのままで観察して見よう” こう云って子供達にあのガラス戸を動かさないでおくように云って置 いた。 朝も便所へ行く、一日に何回かくもを見た。しかし翌日も翌々日もく もは身動きだにしなかった。じっとしていた。“お父ちゃん、くもって 一寸も外へ出ようとあわてないね”女の子はいかにも不思議そうに云っ た事もあった。夏の夕方いそがしそうに巣を張るくもなのに、ガラス戸 に閉じ込められたこのくもは一週間たってもじっと死んだ様に動かなか った。 十日たった。やはり最初見つけた時の様にじっとして動かなかった。 十日間も何も食べずに居る。 少し私も驚きかけた。よくこんなに食べずに居られるものだ。人間が 十日も食べずにいると“食べさせろ、殺す気か”などとさぞかし大声で 家の人達にどなりつけるだろう。そして、もがいて、もがいて心か身が 怒でかたまるだろう。そう考えるとこのくもはずい分忍耐強い。動くこ とすらしないでいる。私がこのくもだったらどこか出口はないものかと 一日中、ガラス戸の中を右往左往するだろう。 そして食べ物がないかとガラス戸の中を一生懸命さがすだろう。 とうとう二週間たった。半月になったのである。子供達はもう見るの も忘れてしまった。何度となく便所へ行く私は くもはガラス戸にぴた りとひっついて 死んでいるのかな 腹がへって動けないのかも知れな い。観察しようと思った心は何時の間にかこのくもの辛抱強さに負けて 居た。それは同情だったかも知れない。それでもいいと思う様になって 来た。 丁度二十三日目の朝だった。どやどやと子供達がよって来た。 “お父ちゃん、まだ見ているの、可哀そうよ”私もそんな気がした。 女の子が一寸ガラス戸に手をふれた。 カタリ、と音がして一センチばかりのすき間が出来たかどうかわから ない位の時。じっとしていたくもがすばやくその間をくぐりぬけて外へ 出て居た。 “あっ”と言ってまばたきを一つする瞬間だった。 戸袋の外へくもは逃れ去って居た。 “逃げた、逃げた、ほらあそこだよ”子供達が指さす方にくもはゆうゆ うと逃れ去って行った。──と云うよりゆうゆうと去って行ったのであ る。今まで少し可哀そうだと思っていた私は“しまった”と思った。だ まされた心地がした。くもは去った。 私は書斎で書き物をしようとしたが、くもの事が気になった。くもが ガラス戸に閉じ込められてから、私の気持はこんなに変って行った。 ○ よーし、観察してやろう。根くらべだ。 ○ 面白い奴だ。何時までじっとしてるんだ。 ○ まだじっとしている。 ○ まだじっとしている。 ○ やっぱり、じっとしている。 ○ あれまだヾ。腹がへらんのかな。 ○ 腹がへって動けまい。どうする気なんだろう。 ○ 開けてやろうか。死んじまうから。 ○ 死んぢゃったのかな。可哀そうに。 二十三日目の朝、私の気持を根本からくつがえして、さっと逃げて行 った。負けた。くもに負けた。 可哀そうにと思っていた気持は、ぐらぐらっとくずれて、“しまった。 負けた”と思った時はすでに遅かった。くもが勝ったのである。 二十三日前、くもが最初ガラス戸に閉じ込められた時、くもは今日出 られると思っていたゞろうか。 二十三日もの長い間出られる日を待って居たくもは、じっと動かず時 を待った。 じっと死んだ様になって待っていた。 このわずかな一センチほどのすき間が生命の道だった。 この道を通って外へ出る日が来るまでガラス戸のくもはじっと待って いた。生きる為に……。 このくもの辛抱強さと忍耐力と、すべてを捨てゝじっと待っていた心 がまえは、わずか一センチほどのせまい生命のためだったのである。 ── そして動いた。そして、このくも事件は私の心に何か打つものが あったのである。 今頃は思い切り美味しい御馳走にありついているくもを思い出しなが ら、もし言葉が通じるのなら“くもさんよくがんばりましたね”と云っ てやり度い気持がした。 そして、このくもの話は、ただそれだけしまっておく気持になれなか った。 何か、私たちの生活の仕方に教えられるものがある。 と、ぼんやり思ったのである。 ── 《素描・第一号 19520401 さゞなみ同人会》P02 << くもとハチのはなし 阿波 雅敏 夏の或る朝、一匹のくもを見付けた。くもはガラス戸とガラス戸の間 に這入って何処からも出られずにいた。 休暇中で毎日家にいた私は“此奴、これからどうするか見ていてやれ” と思った。 くもは、じっと動かず、あわてずガラス戸の中で身動きもしなかった。 「あのくもはあのままで何日位じっとしているだろうか。あのままだと 先ず外へは出られまい。腹もへるだろうに。」こんな事も思った。 ところが何時迄たっても、くもは動こうともしなかった。一週間たち 十日たったが、最初の時と同じ格好で頑固に足一本動かさずにじっとし ていた。 二週間目。くもは依然として最初のままであった。 “死んでしまったかな。腹がへって動けんのかも知れん。”最初何かの 刺激を期待していた私は、次第にくもを相手に根比べをしている事が馬 鹿らしくなって来た。それは此のくもに対する同情であったかも知れな かった。又そうであっても良いと思う様になった。 そこで私はさんざ考えた挙句思い切ってガラス戸を開ける事にした。 もう一度くものいるのを確かめてから私はガラス戸に手をふれた。 “ガタリ”と音がして一センチ程のすき間が出来たかどうか、其の瞬間 くもは外へ出ていた。全く瞬間というよりなかった。 くもに逃げられたのを知った私は“しまった”と思った。だまされた 心地がした。 二週間前、此のくもが最初ガラス戸に閉じ込められた時、くもは今日 出られると思っていただろうか。二週間の間、じっと動かず時を待った、 そしてくもは、今日迄頑張り続けて、遂に一センチ足らずの生命を得た。 此のくもの辛棒と、忍耐と、総てを捨て、待っていたものは、一セン チ足らずの生命だったのである。 数日後こんな事を本で読んだ。或る昆虫学者が、ハチの事について書 いた文章だが、大体、空を飛ぶ為の羽根の面積は体重に比例( 数字は良 く覚えていないが )していて飛行機もこれが応用してあるのだという。 ところがハチの場合は不思議な事に、この比例から行くと体重に対し て羽根の面積が狭いというのである。普通ならば飛べぬというのである。 そして、ハチがもしそれを知った時、初めてハチは飛べなくなるだろう と結んでいる。 くもの忍耐力、ハチの努力は、どこか人間の生き方に似ていると、私 はぼんやり考えた。 (筆者は2D) ── 《同志社中学生新聞・第十四号 19530716 》 ──────────────────────────────── 尾崎一雄《虫のいろいろ》が文学雑誌・新潮に掲載されてから四年後、 金谷先生は「こんな話を聞いた」という前置きで《ガラス戸のくもの話》 を、教え子の編集する同人雑誌に寄稿された。 その教え子はまた、学校新聞の依頼にこたえて《くもとハチのはなし》 を書いた。あきらかな盗作、しかも確信犯である(擬太郎 P041 参照)。 もとの原作を“病床記”とみれば、三者三様に共通するわけで、病み あがりの少年が復学したときの担任であった金谷先生もまた、みずから の闘病生活がはじまっていた。 さらに四十五年後、地方新聞のコラムも引用しているように、原作の エピソードは寓意にあふれている。父の代作による作文《ぼくのいなか》 で知事賞を与えられた文学少年にとって、いまこれが盗作・剽窃であっ たとしても、いずれ脱出すべき拠点となった。(Day'20000711) ──────────────────────────────── 19520401《素描 ・ 第一号》アルタミラ洞窟画《野牛図》《Tokyo’61〜61 初版のあとがき》参照。 19520501《これから・第二号》ロダン《考える人》Pho'京都国立博物館、このころ連日写真撮影に通う。 ── 《大原美術館に在った論争 1999ca 山陽新聞》 19520601《これから・第三号》ギリシャ彫刻《汗をふく青年像》 1952‥‥《これから・第四号》阿波正之・写真集より《夏の杉》 1952‥‥《これから・第五号》ミケランジェロ《青年 15・・》(システィン礼拝堂天井画装飾人物の部分) ── 京都市教育委員会(一周年記念出版)・監修《美術の鑑賞 19491010 都出版社》P023 市内小学生に頒布された副教材(正続二分冊)、著者不明。 19530701《これから・第六号》── 金谷 常延・孔版原版《ローマ彫刻・鳩をもつ青年像》出典未詳 ── 吉田 肇《白衣》ほか。修学旅行での傷痍軍人撮影事件を経て、カンニング事件── 《諌争》 >> 滴一滴 〜 コラム 〜 「晩秋のある日、陽ざしの明るい午後だった」とあるから、時期的に はちょうど、いまごろを言っているのだろう▲尾崎一雄の短編小説「虫 のいろいろ」の書き出しだ。戦後間もなく、病気で床に伏していた作者 は、ラジオからバイオリン曲が流れてくると同時に、部屋の隅にいた一 匹のクモがするするとはい出してき、浮かれたように歩き回るのを見た。 曲が終わる。クモは少しテレたようにこそこそと姿を消した▲偶然とは いえない、「これは油断がならないぞ」と思い、あらためてノミやハチ、 ハエといった身の回りの虫たちの習性に思いを致す。無意識ながら一様 に生きようと懸命に努力していることを発見する。▲対象を見詰める目 の確かさはさすがだ。この時代、虫が、特にハエが多いことにも気がつ いた。「天井板にしがみついていて、陽のさす間は、縁側や畳に下りて あっちこっちしている」とある。病臥している作者の顔にまでたかり遊 び場にする▲ここで作者は世にも珍しいことをやってのけるのだ。額に とまったハエを追うというはっきりした気持ちではないが、眉をぐっと つり上げた。急にできた額のしわ。そのしわが、ハエの足をはさんでし まった。額でブンブンという大きな羽音。「おい、だれか来てくれ」。 そして家族の笑い声▲作者をまねて鏡に向かって眉を思いきりつり上げ てみた。深いしわが入る。そんな年になったのか、これならやれるなと 思う。だが、晩秋といわず夏でさえ、もう何年もハエはいない。 ── 《滴一滴 19981107 山陽新聞》 蜘蛛百態 〜 死亡記事 〜 錦 三郎 短歌・くも研究 1915‥‥ 山形 福島 19970508 82 /〜《蜘蛛百態》 ── クモが糸とともに上昇気流を利用して舞い上がる「雪迎え現象」 を研究。64年「蜘蛛(くも)百態」でエッセイスト・クラブ賞、75年に 斎藤茂吉文化賞などを受賞。92年、東北の地域文化への貢献で文部大臣 表彰。短歌結社「山麓」選者。 ── 《山陽新聞 19970511 》 << 東京時代、キャバレーの舞台装置作品。暗黒のステージに、ボンゴが 鳴りはじめ、一条のスポットライトに、蛍光色のブラジャーが浮かびあ がる。くもの巣に囚えられた女が身をよじって脱出を図るが、力つきる。 ボンゴ・ソロ=北野タダオ(アロー・ジャズ・オーケストラ) ── 《ヌードショウ 〜 蜘蛛と女 19620614-0616 ミス東京》 ♀朱雀 さぎり(初代) 1940‥‥ 東京 19920112 51 /1958-1983日劇 ──────────────────────────────── (20061115)
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