与太郎文庫
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1907年01月23日(水)  知の系図 〜 川と樹の一族 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19070123
 
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 東京生れ
 
 私の生れを京都だと思っている人が、今でも少なくないようである。
なるほど、私は五十年に余る歳月のうち、大部分を京都ですごして来た。
 学校は小学校から大学まで京都。大学を出て、一時、大阪や阪神間に
いたことはあるが、やがてまた京都に帰って来た。先年、アメリカから
もどった時も、列車が東山のトンネルを抜けた時に漸く、
──ああ、帰って来た。
と、思ったものだ。
 しかし生れたのは疑いもなく、東京である。麻布市兵衛町二番地。こ
の高台にあった家を、私は少しも記憶していない。そこに咲いた梅の花
の美しさも、母から聞かされて、知ているだけである。しかし、私はい
つしか、この梅の花をこよなく美しかったものと、思いこんでしまった。
そしてそれは、自分の出生を自ら飾ろうとする無意識の働きでもあった
ろう。(略)
 私は幼いころ、母にせがんで、生家の模様を聞きたがった。
 母は、「その家は、まだ大きな家ではありませんでした」という。
「でも、日当りのいい、住みよいお家でした。あなたの生れたのは大変
に寒い日で……」 寒かったのは当然である。一月の二十三日である。
梅のつぼみも、まだ固かったであろう。
 長兄芳樹が数え年で六つ、次兄茂樹が四つだった。兄たちにも、この
家に記憶は薄い。長兄の更に上に、香代子と妙子の二人の姉があった。
この姉たちは、今でもその家を記憶しているという。
 
── 湯川 秀樹《旅人・ある物理学者の回想 1957 〜 朝日新聞》
── 湯川 秀樹《旅人・ある物理学者の回想 19600115 角川文庫》
 
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 湯川 玄洋  秀樹の岳父   1866‥‥ 大阪  19350810 69 /慶応 2.湯川胃腸病院長
 小川 琢治  湯川 秀樹の父  18700621 和歌山 19411115 72 /明治 3.0528旧姓=浅井
♀小川 香代子 湯川 秀樹の長姉 19‥‥‥ ‥‥        /琢治の長女1908京都移住
♀小川 妙子? 湯川 秀樹の次姉 19‥‥‥ ‥‥        /琢治の次女
 小川 芳樹  湯川 秀樹の長兄 19020329 東京  19590327 56 /冶金学/東京大学教授
 貝塚 茂樹  湯川 秀樹の次兄 19040501 東京  19870209 82 /中国史1984年文化勲章
 小川 □樹  湯川 秀樹の末弟 191.‥‥ 京都  194.‥‥ 2. /琢治の五男/戦死
 小川 環樹  湯川 秀樹の弟  19101003 京都  19930831 82 /琢治の四男/中国語学
/東北大学教授/京都大学教授/〜《史記/唐詩概説/三国志/蘇軾詩選》
 
 湯川 秀樹  玄洋の女婿   19070123 東京  19810908 74 /異19070125
/旧姓=小川 琢治の三男/19491103ノーベル物理学賞/京都大学教授
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♀湯川 スミ  秀樹の未亡人  1910‥‥ 大阪  20060514 96 /玄洋の長女
“京の3令室”/VTR〜湯川記念館《湯川 秀樹評伝 20010201 山陽映画》証言
 
♀千 登三子  宗室15の妻   19300727 東京  19990309 68 /裏千家学園校長
“京の3令室”/京都日仏協会副会長199903・・シュバリエ賞
 
♀大谷 智子  東本願寺裏方  19060901 京都  19891115 83 /光暢の妻
“京の3令室”香淳皇后の妹=久邇宮 邦彦の三女
 
 河野 通一 元日銀副総裁   1909‥‥ 広島  19970302 88 /柿沢 弘治の岳父
♀河野 誠子 通一の妻     19‥‥‥ ‥‥        /湯川 秀樹の従妹
♀河野 映子 通一の娘     19‥‥‥ ‥‥        /柿沢 弘治の妻
 森  喜朗 衆議院議員    19370714 石川        /首相86/小川一族の遠戚
 湯川 博士 ルポライター   19450225 東京        /籍=?

 
http://d2.hatena.ne.jp/adlib/19690422
 〜 大谷 光暢・智子御夫妻をたずねて 〜
 
http://d2.hatena.ne.jp/adlib/19690529
 耳太郎 〜 沙汰あり 〜
 
── 湯川スミさん(ゆかわ・すみ=日本人で初めてノーベル賞を受賞
した故湯川秀樹博士夫人、国際平和団体「世界連邦世界協会」名誉会長)
14日午後2時4分、胃がんのため京都市左京区下鴨泉川町6の5の自
宅で死去、96歳。大阪市出身。葬儀・告別式は未定。
 1932年に湯川博士と結婚。米プリンストン高等学術研究所客員教
授に赴任した博士の秘書役を務め、49年のノーベル賞授賞式に同行し
た。81年に博士が死去後、博士の悲願だった核兵器廃絶の意志を受け
継いで平和運動を本格化。87年、世界38カ国、56団体で構成する
世界連邦世界協会の名誉会長に就任し、運動の先頭に立った。
 著書に自叙伝「苦楽の園」がある。
── 《訃報 20060514 共同通信》
 
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(20060514)


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