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■ (日記) 誰かさんへ
心がどうしようもなく痛んで、落ち込んで、底辺まで行ってしまい、そこから一歩も這い上がれそうに無い時は、その底辺の場所に少し漂っているのも良い事かもしれない。
無理に明るくしよう、元気になろうなんて思っても、気分を変えようなんて思っても、灯りを探そうなんて思っても、それは所詮、一時しのぎのごまかしでしかないような気がする。
第一、そんな時は、人の慰めの言葉や、励ましの言葉すらが、重苦しく、苦痛になってしまうほどの凹みようなのでしょうから・・・・・・。
それよりも、その苦しみや、悲しさや、理不尽さや、怒りや、ともすれば自分自身への自己嫌悪や、自分を今そうさせてる要因などとじっくりと対峙し、対話し、凹むだけ凹み、泣くだけ泣いてみるのも案外気持ちが良いものだと最近思えてきた。
どんな涙にせよ、泣いてる時って結構心地良い。 思い切り泣く事で、その涙の一粒一粒たちが心の澱(おり)や、垢や、毒素などを外に連れ出してくれるような気がするからだ。 だからアタシは凹む時は変にごまかそうとせず、徹底的に凹む事にしている。
その涙が枯れ果てた時、なにか違ったものが見えてくる。 と言うよりかは、今までそうとしか見えなかったものが違って見える事もある。 辛さも、幸せ感も、そういつまでも続くものではないのだし、それらが常に背中合わせにになっている仕組みを、アタシは知った。
その苦しみの直ぐ裏に、楽しさがあるんだよ。 苦しみ切ったら、きっと自然にそれが顔を出すから・・・・・・。
2008年10月16日(木)
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