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■ 【手記】私が何故、コゲニ貧乏なのかの理由(最終)
この処、色々な事でバタバタしてたので、中々続きが書けなくて、申し訳ございませんでした。催促のMailを頂いちゃいました〜。(チョット嬉しかったりして・・・) それでは、取り急ぎ、続きを書く事にしましょうましょうね・・・(^^;)
(サテ・・・此処から下が本文です)
約一年後、母と私は、叔母の家を出、隣町の中野に移り住んだのだった。 私はその時小学校の5年生だった。 中野の家は、8世帯のコーポで、表通りに面した一階部分が店舗になっており、店の奥には住まいがあった。 母は、その両方を借り、初めて自分で商売を始めたのだ。 昼はレスト喫茶。夜はパブ喫茶に早変わり。 母の店は、味も好評で、若い客たちで何時も混んでいた。
つい先日の日記【千と神隠しについて】でも述べた通り、忙しい母を持ち・通常の家庭の温かさとは何処かズレてる不謹慎な家庭に育ち・刹那的な出会いと別れを幾度も経験し・でも変な贅沢は知り過ぎた私は(爆)、その心の空白を埋める為、お金を使う事で自分の淋しさを埋めるようになった。 お金が然程大切な物だと言う意識も無かった。 何しろ、誰も持っていないものを持つ事、金持ちの子供のフリをする事が、唯一の友達と近づく術だった。 子供の癖に、レストランめいた所に友達を誘っては、奢ったりもしていた。 モチロン、母親のサイフから、チョッピリ小銭をくすねたりして、遊んだりした事もあった。(私も数回、息子にやられたけど・・・(^^;)
母の店の都合で、何度かの転校を繰り返し、そんな刹那的な人々との関わりの中で、本来の友達の作り方が解らなくなって行った。 勉強もダメだった私は、物で友人を釣る事と、笑わせて人気を集めるくらいしか術が無かったのだ。
その後、母は何度か店舗を増やし、その反動で、借金も増やし(爆)、小学校の6年頃から、私が17で働き出した頃までは、本当に貧乏な家になってしまった。
働いたお金の半分以上は母に没収され、やれ、夏は海・やれ、冬はスキーと、通常の青春を満喫している同世代の友人を横目で羨ましく眺めつつ、私は洋服を買うにも、いちいち母にお伺いを立てなければならない状態だった。
そんな、何処かで満たされない欲求不満が嵩じて、(普通の人ならお金の大切さを身に染みて感じ、お金を溜め始めるはずなのだが・・・)私の場合は、普段、持ち慣れないものをもつと、嬉しさのあまり、パッパと使っちゃう癖がついてしまったのだ。(爆)
父もお金への執着心は無い人だった。 例え生活が困っても、その場が楽しければ直ぐに使ってしまう。 母も、負けず嫌いで、見栄っ張り。貧乏なくせにそれを悟られるのが恥ずかしいと思うのか、気前が良かった。 その場が楽しければお金を出す事をいとわない、お人好しの父と、見栄っ張りのエエカッコシイ〜の母の血を、素直に受け継いでしまったのだ。 要するに、両親のダメな部分だけを、私は引き継いでしまったようだ。(^^;
私は(誰でもだろうが)楽しい時間が好きだ。要は、遊び好きなのだ。 抑圧されていた物が、突然、爆発したのかもしれない。 美味しい物を食べて、楽しい時間を好きな人々達と共有する事が、人一倍好きなのだ。 だから、私が店を経営していた時も、儲け以上に、好きな人達に囲まれて、美味しい物を食べさせたり、歌ったり、しゃべったり、皆が賑やかにガヤガヤしててくれれば嬉しかった。 モチロン、生活の為が一番理由だが、人恋しさだけで始めた商売だから、イカに商売下手だった事か、お解りいただけると思う・・・・・。(^^; 賑わってた割には、全然儲からなかった。(・・,)グスン
それに数珠繋ぎの、踏んだり蹴ったりが、長年の貧乏生活に拍車を掛けて、今こんな自転車操業的な状態になってしまったのだ。
でも、自分の招いたこの苦しさは、何とか自分の力で乗り切りたい。 こんな私を見放さず、協力し続けてくれた友人達の為にも、こんな私を嘲笑って、馬鹿にしてくれた人たちの為にも、何時か良い意味で、見返してやりたい。
決して富を得ようとは思っていない。でも、せめて・・・、月々の支払いをスムーズにこなし、人に迷惑を掛けない暮らしがしたい。(^^; 人との付き合いが出来るような、余裕をもちたい。
水商売以外の、何の才能もない私は、この年で然程のお金を稼げる仕事も無い。 体力仕事も、極度の腰痛の為、無理だ。 でも、支払いは待ってくれない。溜まっていく一方なのだ。
だから、実らない夢であっても、何時か報われると信じ、文章を書き続けてるのだ。(^^;
※貧乏話には、まだまだ先があるのだが、それを書き続けると、それだけで一冊の本が出来てしまうほどになるので、今回はこの辺でやめておく事にする。(爆)
2003年03月12日(水)
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