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■ 【エッセイ】病気を治す為だけが、病院じゃない
これは、文章を書き始めて、一番最初に書いた、エッセイです。 余りの文章の酷さに、赤面ですが、あえて、添削なしで載せてみます。(爆)
『病気を治すためだけが病院ではない』
私は昨年『子宮癌』の為、或る大学病院に半年ほどの間、お世話になっておりました。(なんか変だな・・・・・・)身体の異変に気付いた時、(幸か不幸か)その大学病院の《産婦人科の先生》には、昨年3月まで、私が経営していた店(飲食店)の常連客が数人いた為、中でも、特に親しかった一人の先生に、恥を偲んで相談してみたのです。
早速、その先生は、産婦人科の教授に、紹介状を書いてくださり、さほど待たずして、私は診察を受ける事ができたのです。 案の定、予感が的中して、『子宮癌』の(ステージ1)との事でした。 最初に、《円錐切除術》という、検査と治療を兼ねた手術を受け、切り取った組織を病理検査に廻すとの事でした。 先生も、私も、『癌』が初期であった為、その簡単な手術で、完治すると思っていたのです。ところが、病理検査の結果、思いの外『癌』は大きかったらしく、一度は退院したものの、一月先には、子宮の全摘手術《広範囲摘出手術》をしなければならないとの事でした。 その手術は、子宮はもちろんの事、両側の卵巣、そしてリンパ節も、全て切除する―。 という手術だそうで、通常5時間〜7時間ぐらいの手術時間を要する。と言う事でした。
先生が、『友人』と言う事も有り、私は手術前、現在の本当の病状やら、術後の治療法やら、術後の体の変化、今後起こるべく後遺症等、一言たりとも聞き逃すまいと、必死に先生の説明を聞きました。そして、納得のいくまで答えを求め、先生を、質問攻めに遭わせました。 それでも、疑り深い私は、主人と子供を呼び寄せ、いつに無く真剣に、「もしも開いて見て、手遅れの場合は、必ず家族が呼ばれて、このまま手術を続行するか、中断するかを聞かれるから、その場合、絶対に『中断してください』って言ってね。間違っても、『手術を続けてください』なんて言わないでよ!」と、強く言い含めたのです。 そんな事があって、私はまもなく手術室に入りました。 夫と息子と私の友人(病院の職員)は、病院の地下に有る『喫茶室』で、これから、手術が終わるまでの長い時間を、どう過ごそうかと、相談していたらしいのですが、丁度私が手術室に入って一時間ほど経過した頃だそうですが、突然の『〇〇××様のご家族の方、至急病棟、ナースステーションまでお越しください―』と言う放送が有り、主人も息子も友人も、「ウッソ―・・・・・・!』と顔を見合わせ、コーヒーも手つかずのまま慌ててナースステーションまで戻ったそうです。 三人とも、確実に、例の最悪の決断を迫られるものだと思ったそうです。 ところが、ナースステーションに行ってみると、何としたことか、「申し訳ありませんが、いちばん肝心な手術の承諾書が提出されていませんので、先生がメスを握れず、困っているのですが・・・・・・」と言われ、主人達は、全身の力が一気に抜け、主人に至っては、ペンを持つ手がワナワナ震え、字も満足に書けなかったとの事でした。
このように、笑い話のように始まった、私の入院生活ですが、思いの外、順調に手術は終わったものの、この先の、抗がん剤治療、その他諸々な、術後の機能訓練等を考えると、これからの長い入院生活が、不安でなりませんでした。しかも、『癌』を宣告された人間は、少なからずとも、疑り深くなっているので、特に、医師の発する言葉には、とても敏感で、いろいろと勘繰るものです。例えば先生方によって意見が食い違っていたり、こちらの質問に対して曖昧な返事が帰ってきたりすると、患者はとても悩むのです。私の場合『癌』が割と初期だった為、比較的、先生方の言う事が素直に聴けたのですが、それはやはり、先生方に、友人、もしくは知人が居たからこそ、こちらとしても、言葉を交わし易かったせいだと思います。私よりも、もっと状態の悪い人や、症状の重い人達は、何度も繰り返される治療や延命よりも、むしろ、セラピストのような人の存在が必要なのではないかと感じたのです。
大学病院は『癌』に限らず、重い病気を抱えた人が殆どです。もちろん病気を直すことは先決ですが『心のケア』が、もっともっと必要なのではないでしょうか。患者というものは常に、沢山の疑問や不満を抱えて居ると思います。先生方が考えてる以上に、医師や看護婦との会話を持ちたがっています。けれども、遠慮するのです。偶さか僅かな時間が取れて、話が出来たとしても、医師や看護婦達は(人によって、違いもありますが)事務的で、会話をしていても、なにか、人間同士という感じがしないのです。 やたらな事が言えないと言う気持ちは判るのですが、やはり患者にも選択の余地や、質問をし、そして、それに対する、納得のいく答えを聞く権利を与えてほしいと思います。愚痴を聞いてもらえるだけでも、患者は元気になったり、頑張る気になったり、入院生活がさほど苦痛ではなくなったりするものなのです。 私などは、もしも病気が再発したら、正直に言って『ホスピス』で自分の最後を送りたいと思っています。私は身内の殆どを、同じ病気で亡くしています。ですから私は、命の長さよりも、むしろ、短くても自分なりに充実し、納得のできる生き方をしたいし、又、死に方を選びたい―。そう願っています。 そして、他の患者さんの中にも、こういう意見の人達が、数多く居るように思うのです。 どちらにしても、手術も、治療も、恐怖と辛さを伴うものです。もちろん自分の命に対する想い入れも個々に有るでしょう。各病棟に、2〜3人のセラピスト、ないしカウンセラーが、絶対に必要なのではないかと思います。 突然話が変わって申し訳ありませんが、私は、食べ物の好き嫌いもあり、『大部屋』だと、お見舞いの差し入れや、菓子類等、親切に分けてくれる方がいるのですが、それが正直言って、とても有り難迷惑な事でした。食べたくないものをいただいたり、又、好きで食べたくても、治療や他の理由から食べられなかったりで、捨てるわけにもいかず、処分に苦労しました。そんな理由から、後半私は個室にいたのですが、友人の先生が、暇を見ては、立寄ってくださったり、消灯過ぎまで雑談に耽ったりと、恵まれた時間が持てたからこそ、辛い入院生活も我慢が出来たのだと思います。 難しい病気を治す事で手柄を立てたい気持ちもわかりますが、『患者も生身の人間なんだ』ということを、もっとご理解いただきたいと思います。入院生活の中で、患者が娯楽や趣味を求めることは不可能かもしれませんが、長い間入院している患者は、とても退屈で、やりきれない気持ちでいることは確かです。朝から晩まで同じことの繰り返しなのです。同じ時間に起きて、同じ景色を見て、美味しくもない(失礼)食事を食べて、辛い治療をして、そして眠るだけなのです。医師や看護婦は、仕事が終われば帰ることができます。ストレスを発散させる事もできるでしょう。しかし患者に取って、病院は家なのです。 だからこそ、もっと、居心地のよい場所であるべきなのではないでしょうか・・・・・・。 楽しみが、極端に少ない入院生活です。せめて、週1時間でも、自分の話に真剣に耳を傾けてくれ、心から頷いてくれる人がいたなら、長期にわたる入院生活も、変わって来るのではないでしょうか・・・・・・。
2002年05月23日(木)
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