『 hi da ma ri - ra se n 』


「 シンプルに生き死にしたかった 」


2003年07月08日(火) 吉祥寺

吉祥寺に行ってきました
ちょっとした冒険に似て
遠くへ遠くへさんぽする

李孝司写真展「きみ住む街で vol.2 」ギャラリー惺


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3箇月ぶりに行ってみたその場所は
緑がわさわさっと道中にあふれていて、それがもう
うわあああというしかなかった
井の頭公園ちょうど前、並木道
みんな、春には裸木だったので
道にたっぷりかぶさってあたりを暗々とさせるくらい
みどりみどりしているのが
別の場所のようで

夏だよ
どうしよう

白黒写真二十数点、、、くらいだったかな
井の頭公園は動物と子どもの宝庫のようです
大人のせなかと、子どもの顔と。

写真のなかに記憶をみてしまったので
ああこんな
やわやわと光の粒子が漂っていたような
ひなたくさい、ほこりっぽい、
それでも眩しすぎてしかたなかった学校の庭の砂埃を
フェンスを隔ててのぞいていたときがきっとあった。
仲間はずれのようなきっぱりとしたさびしさで
向こう側には誰もいなくて

孤独というものが燃えつきて、そこにはもうなんにもないのだ

本当は公園の広場の写真だったらしいのだけど
わたしには学校の校庭に思えてしまったのだった
まぶしい、まぶしい、
緑の下からみはるかしているまっしろな砂がじりじりと焼かれて
沈黙している夏の庭。


ひとの写真のなか、じぶんの記憶をトレースしてみるようなこともあるのだなと思った。


李さんの飼い猫という「チィ」の写真がとてもとてもよくて
持ってかえって飾っておきたいくらい
猫の写真を集める趣味はぜんぜんないです
むしろ逆、
猫のカレンダーとか猫の写真集とかは十中八九避けて通るほう

しかしそこに写っているのは
たとえば「かわいい猫の顔かたち」じゃなくて、
通りすがりのコンニチハでもなくて
もっとずっとあったかくて深くて
それはずっと一緒にいるこのひととの関係、だと思った。
そんな猫の顔。
のびのびーん。

うーん飼い猫オーラがうらやましいとも言います。


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よくなかったこといくらか、
人込みがこわくてかなりぐらぐらと発作手前くらいに行ってしまった
それか中継地点になってもらったともだちの顔をみてへこみにへこんだ。
うん。
外見がしんどいってこういうことなのかなあと一人でいたら思わないことを
目の前に見てたっぷりじっくり考えずにはいられなかったのだった……
情けないけど
あーあ、わたしも一応女の子だったのだなあ、
ちぇ。

ただ、避けて通っている事柄のあんまり多いことに
気がついて妙にかなしくなってしまったのだった。
腕を出さないこととか
食べるもののこととか
夏なのにハイネック着てることとか
化粧っ気のまるでないこととかそれなりにいろいろ
言葉にも浮かんでこないような些細なことをたぶんたくさん
勝手に感じて

………隣の芝生はいつだって真っ青さ。

くらべたら、きりがない。

帰ってきてばったりとしているけれども
ちゃんちゃんと悪くなってくれる状態で
落ち込む要素にはことかかないのだけれども
しかし

それはともかく

くらべたらきりがないので
わたしはわたしで
あきらめないようにしないとね

しかし往復の電車のなかのできごとはくりかえしたくなく思うので
やっぱりせいしんあんていざいだのこうふあんざいだのすいみんやくだの
そういうのがあったほうが楽に過ごしてゆけるのは間違いがないようで
どうしようかなと思うのだ

楽なほうに倒れてるだけじゃないのか自分
といううたがいはぜんぜん晴れない
ちっとも晴れない

うすくならないしみになってる


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真火 [MAIL]

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