みちる草紙

2005年05月01日(日) そして誰が悪いのか

今朝、テレビをつけると、先日未曾有の犠牲者を出した列車脱線事故の特番をやっていた。
兎にも角にも気の毒なのは、運悪くこの電車に乗り合わせ、死んだ100人を超す乗客である。
一体誰が悪いのかという犯人探しの最中で、もし自分が遺族なら、と思うと
怒りのやり場が定まらないというのも、失った悲しみ以上の苦しみではあるまいか。

現在、JRの対応に非難が集中している。所詮、お役所体質が抜けないとああいうものだ。
それが遺族の神経を逆撫でしてやまないことは、察して余りある。
だが一方で、乗客同様、同時に死者となった者への配慮なのか、
未熟極まりない運転で多くの人を死なせた運転士には、意外なほど矛先が向かない。
先ず、JRの課すペナルティというのがクローズアップされている。
なるほど、企業の利益至上主義的体制や体質には由々しき問題があったと見え
今回の大事故の賠償責任を全面的に負うべきはもとより、糾弾さるべきであることは
疑いの余地をいれない。

それにしても、である。
新米運転士が庇われ過ぎてはいないか、というのが引っかかってならないのだ。
では、あの運転士は果して、哀れなスケープゴートなのだろうか。
大企業の膿を出すために、あれほど累々たる死体の山が必要だったというのか。
未成年が凶悪犯罪を犯し、その生い立ちや家庭環境から大幅な酌量が加えられるという
ケースに遭遇すると、必ず覚えるあの違和感。あれによく似た不可解さ。

書類送検にはなっても、既に故人となり実質的な責任をもはや問えない運転士を
徒に鞭打つつもりはないのだが、要はその「ペナルティ」との関わり方なのである。

例えば、個人レベルの交通事故にも罰則、いわゆるペナルティは付きものである。
ルール違反でも罰金、人を轢き殺せば交通刑務所なり、何らかの処罰が待ち受ける。
まして鉄道となれば輸送人数は車の比ではなく、新人とは言えいっぱしの成人であるなら
ペナルティがあろうとなかろうと、その責任の重さを自ずと自覚せずにはいまい。
過去に陰湿な罰を経験済みの彼が恐れたのはよくよくだろう。それは分かる。
だが、第一に災いしたのは訓練不足に加え、彼の異常なまでの気の小ささであろうと思う。
真面目だったという彼は、登用試験は一応優秀な成績で突破したのだろうが
実践でのミスを重ね、何百何千の命を預かる運転士としての資質には、きっと欠けていた。
乗客の立場からすれば、その人柄がどうであれ、毎度オーバーランを繰り返す
下手クソな運転士の動かす電車に、わざわざ好んで乗りたい者はない筈である。
もしあの気弱な運転士が存命していたとすれば今頃、当然免れないであろう
刑事責任の重圧を、果して持ち堪え得ただろうか。

高速道路で事故を起こし、人命を奪い交通を麻痺させるトラック事故などはよく聞くが
それらについては事故の報道が一通りなされるだけで、事後処理の詳細は
殆ど一般に認知されずに看過される。ああいった場合はどうなのか。
長距離トラックやバスの運転手、バイク便のライダーなどは、例外なく過密スケジュールに
拉がれている筈である。そして中には、安全意識の希薄な者も少なからずいよう。
最終的に責任を取るのは会社でも、事故を起こすのはその中の一個人であり
それは飽くまで個人的な問題なのである。

JRに対する怨嗟や怒号がとぶ中、ある遺族の男性が顔を歪めてこう語っていた。
『誰かを責めてもしょうがない。日本中の気の緩みがこの事故を引き起こしたんですよ。
 ああいう運転士さんを走らせてたというのも、JRの緩みでしょう?』

信用して命を預けた筈の運転士が、自分たちの安全よりも己のミスの挽回に気をとられ
あの恐るべき暴走の挙句、取り返しのつかない事故を起こし、それでいながら
一言の釈明の言葉を口にすることもなく、呆気なく死んでしまった訳である。
その運転士は曲がりなりにもプロであり、決して責任能力を問えない者ではなかった筈だ。
確かにJRは、従業員を過酷な制度で締め付け過ぎ、人命優先という肝心の教育を怠った。
運転士亡き今、被害者にしてみれば、全ての責任は無論JRに帰すべきものであろう。
そのことに異存はないのだけれども。

それでも我々は、勤めに出るため、日々電車を利用しない訳には行かない。
誰をも責められないと達観するには無念に過ぎる、今回の惨事であった。


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