飽きもせず、新成人の幼児どもが式典を台無しにして興がるニュース。 こんなもの廃止すれば良いのだと鼻白みながら、“放浪記”をまたぞろ読む。
とうの昔に読み終わっているのに、これ迄に何度繰り返し拾い読みしたことだろうか。 初めて読んだ時アタシはまだ弱冠24で、これを綴った当時の芙美子と同年代ながら 孤独とは、女心とはと、イメージで追体験しようとしたが共感には至らなかった。 しかし、歳月を経て今、狂おしいほどの生々しい実感を伴う記録として映じる。
故郷を離れ、職を転々しながら男と出会い別れながら、東京という砂漠で生きる 一人の若い女。働き、貧しさに喘ぎ、はちきれんばかりの寂しさに泣き叫び 恋をし、捨てられ、死にたいともがき、それでも起き上がり、書き綴り、生きて行く。 日本が貧しかった時代、こんな風に生きなければならなかった女が数多くいた。 そして、自らもが、紛れもなくここに描かれた放浪者なのだということを思い知る。
≪古里は遠い四国の城下町です。父母のことは時たま懐かしく想い出すだけで 東京で一人フラフラと生きています。芸術で身を立てることは叶いませんでした。 仕事を何度も変えました。今の職場にも、長く留まるつもりはありません。 最近、或る男と別れました。今度こそ、赤の他人になりました。 男に縁こそあるが、男運はきっとあまり良くないのだろうと思います…。≫
不況とは言え、大正末期とは比較にならぬ豊富な物資に満たされた生活を送りつつ アタシは芙美子女史より、何がどれほど豊かなのだろう、とふと思ってみる。
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