2001年10月14日(日) |
チャタレイ夫人の恋人 |
先週から通勤電車の中で読んでいた『完訳版』“チャタレイ夫人の恋人” (D.H.ロレンス著)を、洗濯機を回している間に読了した。 不能の准男爵クリフォード卿を夫に持つ、欲求不満の妻コニー。 不貞の妻と別居中の森番メラーズ。貪婪に欲し合う二人の飽くなき性の営み。
ロレンスが描破したかったのは、必ずしも性愛哲学だけではなかったろう。 スターリン主義が台頭する情勢下でのボルシェヴィズム批判、反革命思想が 人物の立場や取り巻く背景環境、主張を通し、切実さを以て語るに落ちる。 が、この恋愛小説を有名にしたのは偏に、50年前「芸術か猥褻か」 を問われ物議を醸した、かの“チャタレイ裁判”である。
猥褻文書として、有罪判決を下されたまま現在に至るこの作品は つい最近まで削除版しか刊行されていなかったというが、なるほど 女性の水着写真にどよめいていた時代だから「いやーん恥ずかしー(-_-*)」 くらいでは済まないほど、当時の日本人には刺激が強かったのか。 こんな上品な文学的婉曲表現の性描写、今では誰もビクともしやしない。 しかし日本にも、そんな性風俗に辛辣な時代が確かにあったのね。
過剰に謳われ保護される自由表現手段の下、恥の感覚は薄れ麻痺する。 惜しみなく与うは良いが、そんなもの分かりの良い社会においては アダルトサイトの洗礼が、おしりの青い小中学生にまで易々と及ぶ現代。 「子供は見ちゃだめ」とか「大人になるまでお預け」とか 今どきの子は、ママにえっちな漫画を取り上げられたりしないのかな。 大人の権威が失墜して久しいと言われる中、せめて親の圧力に代わる 世論の倫理は、建前だけでも頑としてあるべきだと思うのだけれど …もう遅いか。
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