ぼんやり日記
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2003年05月07日(水) |
見た目ぼんやり、頭は混雑 |
昨日、ぶたこはえっちらおっちら、公園まで 年長のおねえちゃんと手をつないで帰ってきた。 その姿が愛くるしいので、またもや人目もかえりみず、親ばか。 だめだ、下の子だからこんなに可愛く思えるのか?
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もちろん人はそれぞれ違うものだけれど、 もう少しおおざっぱなくくりでも 自分が周りの人たちと違う気がする、というのは 小さい頃からふとした時に感じていた。 特にそれが大きな溝になっているとは思わないので (いや他人には大きな溝と感じたかも知れぬ ほほ) 深刻に悩んだことはないのだけれど、やはりふと 「あれ、こういう時ってフツーはどうしてるんだろう」と フツーの基準を常に探している自分に気が付く。
そうそう、私はフツーの基準が常にわからないヤツなのだ。 例えば。 数人で世間話をしているとき、どういう風に話を進めるのが 適当なのかわからない。どこで相づちを打てばいい? 自分はどうやって話に乗っていけばいい? 常に周りの人をみながら、周りの基準を見つけようとして かなり苦労して井戸端会議の輪に入っているわけである。 日々、人と会うたび、そういう手探りの状態なので当然、疲れる。 もちろん、少しずつ今までの蓄積を通して事前に察知することも できるのだけれど、ファジーな調整も続けなければいけない。 時には言うべき事を頭で復唱しながら(会社のプレゼン準備みたいに) 人に会いに行ったりもする。 すごくしょうもない用件なのに。毎日会ってる人なのに。 ああ、見た目はきっと「ぼけーっとしてんじゃないよ」なんだけど 頭の中は「あれはどうで、こっちの人がこうで、向こうが こう出るから、そちらを調整して、あーだこーだ」と 非常に忙しく混雑しているのである。 (単に「どこでごはんを食べるか」という議題だけであったとしても)
そんなに人の顔色伺いながら話をするこたないじゃないか。 あなたの意見を、あなたの流儀を通せばよいではないの。
そうだよね、自分の意見がないなんて悲しい話だよね。 でもね、もう長いことこんな暮らししてきたので、 自分の意見がわからなくなってしまいました。 それに、たぶん私の流儀を通すということになれば かなりぶっとんだ世界が構築される気がするので。
それでも、時々ふと思う。 多くの人はこんな苦労をしなくてもスイスイ生きていけるのか?って。 それはかなりうらやましい。
ただ、これだけははっきり言えるのは こんな頭の中が穴だらけの私でも、こうして幸せに暮らしている ということ。 む、頭の中も穴だらけだが、肺にも穴があったようだ。 病院行くのいやなので、このまま塞がりますように。(祈)
2002年05月07日(火) おなかいたい
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