『春。バーニーズで』 吉田修一 (文藝春秋) - 2004年12月03日(金)
私にとっての吉田氏は“読書の心地よさ”を感じさせてくれる数少ない作家である。 吉田修一の作品を読み終えた瞬間、主人公からバトンタッチされたような気がするのは何故だろうか? 同じように読者との距離の近さを売り物としている石田衣良とは180度違った作風である。 石田衣良の作品には“個性的なキャラの登場人物”が必要不可欠であるしそれを売り物としている。 一方、吉田氏の作品の主人公は“不器用で平凡な登場人物”であればあるほど個性的で輝きを増す。 前々作『長崎乱楽坂』、前作『ランドマーク』あたりから、繊細さだけでなく力強さを兼ね備えたように見受けれたのであるが、本作においても力強さが垣間見られる。 今までの作品にはない強烈なメッセージを投げかけてくれているのである。 作中で主人公の父親が主人公に放つ言葉がある。 「そう何もかんも欲張らんで、まずは、今やれること、一生懸命やってみろ」 この長崎弁で語られる言葉に、かつて主人公と同様、長崎から吉田氏の東京に出てきた強い意志を感じ取ることが出来るのである。 物語はバツイチでこぶ付きの女性と結婚した筒井が、バーニーズにてかつて同居してた“おかま”と会う。 そのおかまとは吉田氏のデビュー作である『最後の息子』の表題作に登場する“閻魔ちゃん”である。 予期しなかった読者は仰天すると同時に懐かしさがこみ上げてくるだろう。 否応なしに、主人公の自由気ままな過去から束縛された現在の対比(主人公は妻の親と同居しているのである)、あと同一人物を登場させることによって読者側も自ずから過去の作品を読むことが出来、結果として吉田氏の成長振りを肌で感じ取ることが出来た点は嬉しい限りである。 “誰もが持っている閉塞感・やるせなさ”を人と人との距離感を上手く保ちながら描き切る術に磨きがかかったように思えた。 さりげなく誰にでもある心の揺れを描写するのが秀逸であることを再認識した。 吉田修一の作品は登場人物の深い内面描写を敢えて避けている。 読者の想像力に委ねているといって過言ではないであろう。 本作は単行本で読んでほしい典型的な作品である。 本の中を開けば一目瞭然である。 装丁の見事さと、中に散りばめられたモノクロ写真とが相まって、見事な吉田ワールドを構築している。 特に、地方から東京に出てきて頑張っている人が読まれたら感慨もひとしおであろうと容易に想像出来る。 ただ、そのためには本作だけでなく吉田氏の作品のいくつかを読む必要があることは口添えしたく思う。 恥ずかしながら、私もおぼろげにわかってきたところであるのですが・・・ 吉田修一の作品を理解するのには、まず吉田修一を理解する必要があるのである。 他の作家においても同様のことが言えるのであろうが、吉田氏の場合は他の作家の比ではないような気がする。 少し前まで、私自身が吉田氏がエンターテイメントに進むべきか純文学で行くべきか模索してるのではないかと感じていた時期があった。 本作を読んでひとつの結論を導き出すことが出来た。 表現方法はどちらでも良い。 吉田氏は作中の主人公のように不器用ではないから・・・ なぜなら吉田氏は作中で父親が発した言葉「そう何もかんも欲張らんで、まずは、今やれること、一生懸命やってみろ」を既に実践しているのである。 まさに有言実行である。 私たち読者が出来るのは彼を暖かく見守りつつ、彼の作品を読み続けることである。 作中の人と人との距離感だけでなく、読者との距離感をキッチリと保っている吉田氏を私は“現代小説の申し子”と評したい。 評価9点 オススメ 2004年108冊目 ...
|
|