コラム 『疾走』と『哀愁的東京』 - 2003年09月13日(土) (9/10掲示板書き込み分) 私個人的には『疾走』より『哀愁的東京』の方がほろずっぱくて好きなのですが、重松さん自身は『疾走』の方に力を入れて書かれたと私も思ってます。 『哀愁的東京』はまだまだ余裕を持って書かれてると思います。 セールス的には ★話題性 ★出版社 ★刊行順序からして『疾走』の方が売れて当然かなあとは思いますが、初めて読まれた方がどう思われるのかいまだに心配しております。 まあ、若い方でしたらそんなに違和感ないのかもしれませんね。 (9/12掲示板書き込み分) おそらく『疾走』は若い方が読まれたらそんなに違和感なく読めると思います。 それだけ世の中が変わったということでしょうかね。 あと、私たちも“私たちが好きな重松さん”という固定観念を持ちすぎてるのでしょうね。 ターゲットを意識したと言うのは間違いないと思います。 おそらく“オール読物”や“小説新潮”では掲載しなかったと思います。 ちなみに“KADOKAWAミステリ”は廃刊となりました。 重松さんの心の中にも“斬新な小説を”という気持ちがあったのだと思います。 辛いなりにも多少は“子供の心の痛み”をわかってあげたいなあって思ったりもします。 ちょっと読後日が過ぎれば感じ方にも柔軟性が出てきたみたいです。少しだけですがね(笑) ここからは『疾走』と『哀愁的東京』について今の私なりの考えを記させていただきます。 是非お読みください。 従来の読者層からしたら『哀愁的東京』の方が良かったという方が多いと思いますが、たとえば20才ぐらいの方が読まれたら『疾走』方が多いような気がします。 若い方は『哀愁的東京』の各編の内容を“懐かしい”と感じないでしょうしね。 でも数冊以上読まれてる重松ファンの方にはどちらが従来の重松テイストを醸し出してるかは一目瞭然で『哀愁的東京』だとわかるでしょう。 確かに従来の重松さんの作品のいくつかを足して割ったような作品だと思います。 個人的に少し甘い評価にした理由を述べますと、“センチメンタリズム”というか“ほろずっぱさ”がとっても心地よく伝わってきたからだと思います。 これは私が重松さんの作品に対して一番魅力を感じてる点です。 ちょっと私事を書かせていただきますと、かつて私も受験生でした。 重松さんと同じW大を目指して頑張りましたが、夢破れ(笑)、京都の大学に行きました。 ほとんど東京には行ったことがない人間ですが、もし東京の大学に行ってたらと言う事を考慮に入れて主人公に自身を“投影して”読み切ることが出来ました。 他の方より感動度が増した原因のひとつだと思ってます。 重松作品の魅力って性別・年代を問わずにいろんな感じ方が出来る事だと思ってます。 もっと突き詰めて言えば、どれだけその作品に“思い入れ出来るかでその方のその作品の評価が決ってくる”と言えるでしょう。 これは他のミステリー作家等では味わえないとっても貴重なものだと私自身強く思ってます。 どれが正しいか答えはありません。答えは読者が実生活で味わい感じ取るべきだと思ってます。 そう言った意味で新刊で出て何年後かにまた読み返して違った感じ方をするって言うのも重松作品の立派な楽しみ方だと思ってます。 世の中も変わりますし読者も変わりますので・・・ 『疾走』は今まで変化球勝負ばかりしていた重松さんが渾身のストレート勝負で出た作品かもしれません。 あるいはその逆かもしれません。 その結果は今後の重松さんの作品が答えを出してくれるでしょう。 野球に例えれば、読者もヘルメットが必要となってきたような気がします。 今までは、ヘルメットなしでバッターボックスに立っていたのでしょうね(笑) いずれにしても(現時点で賛否両論あると思いますが)、重松さんの作風が広がったと達観したく思ったりしてます。 ファンにも心の余裕と柔軟性が必要かもしれませんね(笑) 関連リンク『疾走』感想へ 関連リンク『哀愁的東京』感想へ ...
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