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『哀愁的東京』 重松清 光文社 - 2003年08月22日(金)

本作は最近の重松さんの作品の中では軽く読める部類かもしれない。
でも決してそれは感動的じゃないという意味合いではない。
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主人公の進藤宏は18才で上京、現在40才はフリーライターで主に週刊誌の仕事をしている。
数年前に絵本も書いたのだが、こちらは副業となっている。
妻は娘を連れてアメリカに行って現在別居中。
編集者のシマちゃんによると
「スランプだスランプだって言い訳して、ちっとも新作を書けない怠け者だ、・・・絵本を書けないでいるうちに、アルバイトのはずだったフリーライターの仕事がすっかり本業になっちゃった、流されやすい性格のひとです」
彼の生活は“食べ物やゴミ袋は切らしても、煙草とコーヒーだけは買い置きをたっぷりしている”典型的な中年の一人暮らしだ。


東京という大都会でしかありえないある意味時代の最先端を走る職業“フリーライター”という仕事を通して、最初の章にて同じ大学出身で“元ITビジネスの旗手”田上と知り合い意気投合、彼は学生時代の“覗き部屋”のアリス嬢が忘れられないという。
田上やアリスと出会うことにより失われた何かを感じ取ることが出来た主人公は紆余曲折を経て絵本を書く気力を取り戻して行く。
編集者のシマちゃんがとっても屈託がなく印象的な1章となった。
彼女の存在感はこの物語に光をもたらしているのは間違いない。

作品全体の構成としては、最初の章のみ書き下ろしとなっている。見事な加筆及び再構成と言えよう。

その後(第2章以降)、過去の友達やフリーライターと言う職業を通して知り合ういろんな人たち・・・
元ピエロ、落ちぶれたアイドル歌手、元売れっ子作曲家、過去の友人である痴漢、年老いたSM嬢、ホームレスの夫婦など・・・
でもみんな満身創痍(いい意味で)の人生を送ってます。
さまざまな“人間模様”を鋭い洞察力で描いてます。

ここに出てくる登場人物は都会における生き様の典型的な例に違いないがその一部であることも間違いない。
そう言った意味合いからして“明日は我が身小説”である。

物語の前半で主人公の『パパといっしょに』を書いてからずっと絵本を書けないという境遇を読者はなんなく理解することができるが、その後は最終章にていろんな結末を迎える。
最終章は本当に感動的だ。
妻子との別れのシーンにあまり情を絡ませなかった所に重松さんの変化を見た気がする。
結末を迎えるが決して物語の終わりではない。
そのあとの物語は読者がバトンを受け継ぐからである。
いわば、小説が“問題集”(練習)読者の実生活が“試験”(本番)のようなものだ。

重松清の小説は“人の人生を変える力”を持っている。
読者が身につまされやすい話をどんどん用意してくれる稀有な作家だ。
本作の主人公は客観的に幸せな部類じゃないと思う。
それは彼の人生における割り切れなさに起因している。
主人公の割り切れなさはある意味彼の“良心”だ。
その良心に惹かれない重松ファンはいない。

重松さんの読者の方ほとんどが前向きに生きているが悩みもある。
私もそうだ。
本作はきっと失われた自分を見つけだす手助けとなる恰好の作品だと信じたい。
決して“自分の方がマシだなあ”と安心してほしくないと思ってるはずだ。

重松さんの小説の主人公の苦悩は読者の苦悩でもある。
主人公の“フィルター”が読者の“フィルター”だ。
時には曇っている事もあろうし、鮮やかに見えることもある。
でも、みんな幸せを望んで前向きに生きていることには違いない。
読者同士、いろんな苦しみを共有する事によって生きる哀しみを緩和していってるのだと思う。
ある意味“皆がこの本を読んでいると言う事で連帯感が芽生えてる”ような気がしてならない。
重松さんの作品はそう読むべきだと信じて疑わないし重松さんもそういった読者を望んでいると思う。

帯に『生きる哀しみを引き受けたおとなのための“絵のない絵本”』とある。

きっと読後は『生きる喜びを得られたおとなのための“絵のない絵本"』となるでしょう。

本作は私にとって重松さんが今後もっと素晴らしい作品を書けるであろうと確信した作品でもあることを付け加えておきたい。
まだまだ余力を残しているような気がしてならない。

評価9点。オススメ


関連リンクコラム『疾走』と『哀愁的東京』




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