Kyoto Sanga Sketch Book
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2005年03月11日(金) J2二つのクラブの顔が去った〜大島秀夫と黒部光昭


FW。チームの中では比較的替えが利くと言われながら、
最もそのチームの「顔」と言われる、ファンにとっては複雑な心境のポジション。
あの時の二人が今年それぞれのクラブを去った。


いつもハーフタイムに彼を眺めていた。

出場選手たちがロッカールームに消えている間、
控え選手達はホームゴール裏に近いゴールポストを使ってシュート練習をする。
その中に、一際シュートの正確な長身選手がいた。大島秀夫21歳。

高卒ながらの開幕デビュー。アジア予選でのユース日本代表。
怪我。クラブの合併消滅、そして京都へ。
京都でもカズ、外国人に次いで準レギュラーを掴んでいた。
(当時流行っていた短期留学でも、冨田が3ヶ月だったのに対して、
彼は戦力として数えられていた為、たった1ヶ月で帰国させられたぐらい)

そんな彼が控えとしての出場機会さえ失ったのは、
ある大卒ルーキーが来てからだった。
典型的なセンターFW。ヘディングが強く、ポストプレーも得意。
プレースタイルは被るところが多い。
もうハーフタイムのシュート練習にさえ、彼の顔を見ることはなかった。
結局大卒ルーキーの黒部と争い負けた形で、その年は戦力外。

しかし、アワードパーティで見た彼は全然落ち込んでなかった。
少なくともそう見えなかった。
彼の経歴上、その自信は不思議ではなかったのかも。

”解雇”という言葉が、暗く絶望ではないことを知ったのは、
新しい出発である事を知ったのは、
彼のお陰。



2001年開幕。
二人はそれぞれにクラブの9番を背負っていた。
開幕はベンチスタートだった二人。すぐに京都と山形それぞれの”顔”に成長していく。
その年のJ2、日本人の得点ランキングに二人の名前があった。
結果、京都は優勝。山形は惜しくも3位で昇格を逃した。大島は泣いていた。

2002年。
J1で上位、そして天皇杯制覇、黒部は京都初の生え抜きの代表へ。
その頃、大島はスランプに。


そして2004年。
二人はまた同じリーグにいた。
J2に戻った黒部が結果的に弱々しいプレーを重ねているのに対して、
新しい監督の下、大島は着実にその力を発揮していた。
大島は山形に拾われてもう4年。山形の躍進低迷、そして躍進という
そのクラブを象徴する本当の顔になっていた。


シーズン終了後。
J2日本人得点王の大島に、J1J2からオファーが殺到した。
その中には京都も。

京都を見返す…本当にできてしまった。。

高倍率の中、最終的に彼を山形から買い取ったのはJ1の優勝クラブ。
前クラブを合併吸収したとき、出場機会を失っていた彼を拾わなかった横浜マリノス。




二つのクラブの”顔”は京都と山形を去った。
あれから5年。たぶん二人は意識することはなかったと思うけど、
これからも彼等は道を交差させて、そのキャリアを重ね続ける

2005年シーズンが始まろうとしている。
A3の日本代表クラブとして横浜Mのスタメンに大島がいた。
一方、黒部は前の監督がGMとしているセレッソ大阪でのデビューゴール。
今年二人はJ1で対戦する。





2004年度シーズン最後のテキストなので、まぁ一応京都のことも。
チーム力に似合わないと、なぜか選手がどんどん上へ去っていく。
2年前は黒部、朴、松井、慎吾、冨田の平均年齢22歳の「5本の槍を持つチーム」と言われた。
しかし冨田を除き、これで飛び道具の二つは欧州リーグ、二つはJ1に。
その時の「砲台」、斉藤と手島らだけが残った。
個人的な思い入れや気持ちもあるだろうけど、
それこそ今年京都が死守したかったもの。結果的に現監督が遺留に努めた二人。


ただ、大剛、博貴、六車、池松…まだ若い生え抜き選手たちが控えている。
他クラブと比べてどうこうより、
正直若手の層の厚さは昔の京都を見ていると信じられない。先は長いけどまだ行けるかな。
その上に「J2(若手)オールスターを金で集めた」と口の悪い人は言う。
(監督に言わせると、なんかルックス重視で補強した(だけか)のようですが…)
なんであろうと今年は最後まで他所から妬まれ悪態をつかれる存在であって欲しい。
悪役志望です。。


miyako |MAILHomePage

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