Kyoto Sanga Sketch Book
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2003年09月05日(金) DF手島和希〜穏やかでクレバーな輝き(つことで)

元旦。黒部の両手で天皇杯優勝の杯が掲げられる。
湧く7万の観客。幸せ一杯の光景。
チームを代表してインタビューに答える黒部達。

・・・でも、ここで他チームのサポータは疑問に思ったみたい。
「なぜ、キャプテンの手島が持たないの?語らないの?」

その答えは簡単。彼だから。




フリューゲルスの消滅で京都に来たばかりの2年目にデビュー。
「もう守備については何も教える事はない」という清水監督の言葉と共に
ピッチに現れた少年はマッチ棒みたいでした。ポジションは4バックの左サイド。

「・・・大丈夫かいな。」

案の定、すぐ倒された。ポキっと折れそうな体。
やる気があるのかないのか判らないこの青年は、カバーリングに才を見せる。
が、「”守備については”教える事がない」の意味がすぐにわかった。
プロレベルでは攻撃力がなさすぎ。デビューしたてのSBはサポーターの批判の矢面に。

でも早くもその2ヶ月後、ナイジェリアユース世界大会。
彼の才能が開花。それは怪我の金古の代わりに「CBとしてラインを操ること」。
そして彼らは準優勝。
準決勝進出時トルシエのキスの嵐を嫌々ながら受けていた選手達。
その中に余裕の笑顔の手島を発見!反対にショックで青ざめていたのは高原・・・(笑)



こうして、帰国を「待ち構えていた」弱小クラブに、
そのままDFラインを任されます。まだ御年19歳のこと。

サンガのDFはいつしか彼の為にか、トルシエ式のフラット3になった。
守備を固めたサンガは勝ち続ける。1位が目の前に迫ったことも。
手島クンの太いコーチングの声が西京極に、アウェイに、練習場に響き渡りました。




で、その後5年のサンガの成績ですが、毎年、全く彼の調子次第。。(ハァ)


帰国後の2ndステージ。手島好調。チームは連勝。
翌年2000年、左SBに戻った手島が大スランプ、サテ落ち。チームは降格。
翌年2001年、完全復活。21歳ながらキャプテンマークを巻き続け、チームはJ2優勝。
2002年。手島欠場の為開幕4連敗。その後彼の復帰で5位。天皇杯優勝。
・・・そして怪我の為、彼抜きだった今年の1st。チームは最下位。

・・・本当にこの人の調子・出場ととチームの成績は連動・・・(ハァ)。


ファンサービスができない彼が、どうして女の子達の人気ナンバーワンだったか
当時の彼ですが・・
頼りげない笑み。破壊的に口下手でやる気がなさそう。
が、一端ピッチに立ったら変身。大人達を前に男っぽいリーダーシップを発揮する頭脳。
まぁ、そのギャップは「反則」というか。←けっこう筆者もやられてたくち
(サンガでルーズソックスを流行らした、ファッションリーダでもあるらしい(笑))



しかし変化が訪れた。J2開幕前の事。
「なんか手島がおかしい。むしろ変!」という噂が。
なんだかやる気満々らしい。
シーズン前、キャンプでもチーム得点王を狙う勢い(DFなのになぜに得点王?)
しかも・・・「ひぇ〜、手島がキャプテンマークを巻いているぅ!!!!」

あの幼めの面影はその年からワイルド系に変わりつつあります。
でも、今もたま〜に遠くをみてニヤニヤ機嫌のいいあの「手島クン」をみる事ができます。
ただ、そんな時もけっして「テッシー可愛い!」なんて言ってはいけません。
だって九州男子だから(笑)。






彼の仕事は、最後尾からDFラインをコントロールする事によって、
イレブン全体のポジショニングを方向つける事。
3バック時代のコンパクトサッカーを支えていましたが(ゲルト自身彼のチームと)
ピム監督の4バックになって、より臨機応変な判断が求められている・・・はず。

パスコースを消すのも巧い。クールな守備好きにはたまらない!
ただ迫力ある守備が好きな人達にとっては、まだ地味目な若手DFかも。
最近は一対一にも強くなり、華も加わりました。

そんな彼も今年はA代表。
オールスターでSBの攻撃が見事だったから、とジーコが代表に呼んだ理由を言う。
なんだかいつも不憫な人(笑)。
日本を代表するDF。





元旦の日。
キャプテンマークを巻いた23歳は壇上に上がる時、
「優勝杯はクロさんが受け取ってよ」と言ったらしい。
それが私達にとって愛すべきDFリーダー「てっしー」。



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