HIS AND HER LOG

2006年12月12日(火) 滑落

後から考えてみれば、その時阿含は非常に油断していた。自分の行い、彼自身にとってはほんの冗談のような、それでいて素直でない彼の好意の表現の一つのような、而して周囲にとっては暴挙でしかなかったその一言が、彼女をどう動かすのか、それを予測しなかった、出来なかったからである。しかし、天才と呼ばれる彼にとってすら唯一掴めない存在である彼女の行動など、もしかしたら誰も予期出来なかったのかもしれない。
ただ、その日小夜が留学のために渡米するまであと数日という立場に立たされており、そして無性に阿含を傷つけたい思いに駆られ、そこに兼ねてから互いに情を移していた雲水がタイミングよく現れた、というだけのことだった。それは偶然と言うには出来すぎた舞台であり、彼女があのように行動するのは、すくなくとも彼女にとっては当然のことであった。ひどく滑らかに、その後一つの過ちになりゆく事象の渦に、彼女はすべりおちた。無論、雲水も阿含も同様である。

「うち、すぐそこなんだけど」

小夜の口からすべり落ちるその言葉を、同じように上から下へ落ちてくる水滴に打たれながら雲水は聞いていた。え、と心の中で呟いて、ああ、とまた心の中でもらした。そしてまるで自然に、うん、と返事をして、無言のまま駆けて行く小夜の背を追った。
つい数分前までは青かったように思った空は今は灰色に侵され、何か、決して善くない何かを、暗示するようであった。それほど強くもない雨の粒が、風のない空間を重力にまかせて地面と事物を打ちつけたが、それから逃げるように足を速める彼らを追うことはなかった。だから、彼らは実際雨から逃げていたのではなく、ただそれよりももっと抽象的で粘着質な、形なき何かから逃げていることを自らの心にも悟られないようにするため、雨を建前上の理由に使ったに過ぎない。愚かと言えば愚かかもしれない、しかしまだ15、6の少年少女にとってはひどく大きなことで、まるで神の目を盗む行為であるかのようだったのだ。
1分足らずで玄関の庇の下に駆け込み、小夜は合鍵を取り出して密室への入り口を解く。どうぞ、と振り向きもせず慣れた家屋に足を踏み入れるが、雲水は気にすることもなかった、彼はこの先の予感をもって、重いドアの鍵を閉めた。

「初めてね、こんな風になるの」
「ああ」
「ずっとこうしたかった?」
「ああ」
「阿含に知られたら、きっと殺されるわね」
「・・・」
「どうする、やめるなら今」

今のうち、と言おうとしたところを、左からの強い力によって小夜は遮られた。夏にしては冷たい床の温度が未だ全身に纏わりつく水滴によって更に彼女の身体を冷やし、しかしそれを中和するかのように内包的な熱が彼女の両肩を縛っていた。目の前の男の瞳には思春期の少年独特のギラギラとした情熱がこもっていて、小夜は自分がそれに中てられたいと思っていることに気付き、自嘲した。この1年半、必死に守ってきたそれがこの瞬間破砕される、一時の自棄的行為がこの先自分を含む何人かの人間を苦しめ苛めるかもしれない。知りつつも、もはや止まることはないのは、彼女の情欲のために違いなかった。

「好きだ」
「・・・」
「好きだ、小夜」
「・・・うん」

雲水の愛欲に歪んだ顔が、小夜の内側をひっかくように刺激して、彼女は理性的思考の扉を閉めた。

「私も」

彼の首に手を回し、自分より硬く締まったその肉体に彼女は初めて触れ、ぎこちなく押し縮められていく空気にのまれていった。

「ん、・・・は、ん、・・・」
「・・・はあ、にのみ、・・・さよ、・・・ん、」

ちゅ、ちゅ、と唇を貪っていくうちに冷たかった床は温くなり、熱くなり、次第にねっとりとした熱気がその場を支配した。彼らの行為を洗い流す雨も既に止んでいて、そこあるのは2人の身体と熱だけだった。


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ハチス [MAIL]

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