HIS AND HER LOG

2006年02月05日(日) 月にのぞむ

(世界には愛情が蔓延している。薄桃色の頬をした少女が私の前を会釈をして走り抜けるとき、灰色の子猫に人が手を伸ばすのを見たとき、そして黄昏時には薄く白づいていたあの三日月が煌々と輝く金色になったとき、私はその片鱗に触れて一度長く目を閉じる。閉じた目の中ではまだあの世界が生きているからだ。あの美しき閉鎖空間!ただ一人の人間だけに一心に視線を注いだあの熱情!今はもう還ることはないのだから、こんなことを思い返しても仕方がないのだけれど。)

「どうしたんですか」

薄い髪の色をした彼が聞く。彼は隣で脈絡なく黙りこくった私の顔を覗き込んでいた。眉が下がっている。おかしい。

「下がってる」

笑いながら指でそれを指すと、えっと声を上げて眉を隠す。そして少しだけ頬を赤らめる。白い肌にはよく映えることだ。

「悪い悪い、少し思い出しただけだ」
「何をですか?」
「昔のこと」

むかし・・・そう呟いて、それでもそれ以上そのことを聞こうとしないのはいつものことだった。私の方が彼よりも何十年も長く生きていて(もしかしたら百を超えるかもしれない、でも正確な差を知るのはわずかに怖い)、しかし初めて出逢ってから現在までの時間はそれを埋めるにすら足らないものであるのだから、私達はお互いに自分の知らない相手のことを深く聞くことはしなかった。確かに彼の幼い頃の失敗談、例えば家の池に浮いていた椿の花を取ろうとして落ちて溺れかけたとか、その類の笑い話を聞くのは楽しかったが、彼の記憶の中には暗い闇もあるに違いなく(彼の両親は私が出逢った頃には死んでいた、私はそれを闇の一部だと勝手に推測している)、そしてそういうものに未だ縛られているのはお互い様だった。私の闇は深い。そして粘着質極まりない。きっと一生これから逃れることはない。逃れてはいけない。きっと誰もがそれを許さない!

(それでもあの子だけはそれに捕まることのないように、そのために今私は息をしているのだ。)

「酒、なくなったね、新しいの持って来ようか」

するりと話を変えるのは得意分野、さりげなく重ねる片手も同じこと。冷たい縁側の床板に、彼の手、そして私の手、それだけのことであるのに彼は頬の赤をまた強めた。

「あ、いえ、僕はもう・・・」
「ふふ、下戸だからね、君は」
「燐音さんが強すぎるんですよ」

でもあまり飲みすぎないで、身体に障るからとか言うものだから母親みたいだと返したら、不服そうな顔をする。それを見ながら、意識をまた少しその向こうの空に飛ばした。彼と同じ、しかしそれよりも少し色の強い、金色の世界がまた侵食を始める。身体の中が震えそうなのは怖いからか、それとも、
そこまで考えて前に倒れ込む。見てはいけない、期待してはいけない、欲してはいけない。私に今あるべきは、この胸なのだ。
彼はいきなり倒れこんで来た私に驚いて身体をびくつかせ、そして両手を私の背中に回す。外と接しているからなのか、部屋でやるようにきつくは抱かない。吸い付くように、私の身体を拘束する。そうだ、これだ、これを離してはいけない。顔を上げ瞳を見詰めると、ゆっくりと下りて来るのを待つ。唇は一度啄ばむように触れ、すぐに深く重なった。焦っているのか、仕方もない、こうやって二人で逢う夜は二ヵ月前が最後だった。唇がやっと離れると、今度は彼の方が私の胸に身体を預けた。

「・・・部屋に、戻りましょうか」

ふと、彼の背中ごしにまた月が見えた。輝く黄金色、懐旧、邂逅という一筋の光!それらがあの三日月の先端に乗って私を刺しに来る。あの鋭利な三日月の刃先がすぐそこまで迫っている。ああ、救いを!

「いや、このまま」
「え、でも、あの、ここじゃ・・・」
「誰も来ない」
「燐音さん、」
「早く、助けて」

ためらいがちに私の身体を横たえて、上から重なる。また濃厚に口付けを交わし、今度は首に、肩に、胸に触れる。あの頃よりも大分伸びた薄い色の髪が肌を掠る。

「くすぐったいよ・・・」
「燐音さん、ン、」

必死に貪る彼を抱きながら、口元を綻ばせた。くすぐったいからではない、これならば、この金色の髪に触れてさえいれば私はもうあの闇夜に浮かぶ欠けた月に襲われることはないからだ。月の光に乗ってやって来る面影をこの満面の金色が塗りつぶしてしまう。今この時は彼だけのことをおもえばいい。たった一人の人間にだけ、それを私はどれだけ欲していたことだろう。その心地好さは快楽と混ざって身体を軽くする。

「イヅル・・・」

名前を呼ぶと愛撫が激しさを増す。それに応えるように彼の頭に手を回し髪をなでる。意識が飛びそうだ、いや飛んでもいい。美しき私の黄金、私の救世主よ!どうか、どうか


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ハチス [MAIL]

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