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色眼鏡を通すという表現に違和感がある、と書いた。それについてメールを戴いて、ずっと考えていた。 例えば食事。 己一人ではそれはただの行為であって、ほとんど楽しむと言うものではない。カロリー摂取のためにある。それがホテルの食事でも、クラッカーでも、己にとっては同じことだ。もちろん味は分かる。美味しいとも不味いとも思う。でもただそれだけだ。 誰かといて初めて食卓を囲む食事となり、私は味以外の意味をそれに付与することが出来る。 つまり、味は変わらないと言う点で「bias」とも少し違うのではないかと己は思うのである。偏ってはいない。もともとの味が変わるわけではない。食事という行為に楽しみや味わいを与えてくれるものが他人なのだ。 そもそも己には味に対して意味を感じない。芸術に対しての意味を感じない。だからそれに対して感銘を受けると言うことがほとんど無い。内側から何かを創造できない。そういう人間なのだとここ数年で思うようになった。 でもそこで誰かを通して何かを見るということもない。私が見ているのは結局の所その誰かなのだ。
色々破綻している気がするが、とりあえず今の感想。
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