KENの日記
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2018年01月31日(水) 崇徳上皇足跡

新平家物語第二巻読了後、第三巻を予約し・留め置きしておいてもらっていたのですが25日日曜日にピックアップできず、そのまま武蔵浦和図書館は一週間の臨時休館に入ってしまいました。第二巻前半で「保元の乱」始末が記載されていて「崇徳上皇」が讃岐配流となります。昨年10月に歩いた四国坂出の遍路道の記憶を頼りにして崇徳上皇の讃岐での足跡を書き留めておきます。

崇徳上皇の人生
1119年 御誕生。
1123年 4歳で崇徳天皇としして即位(鳥羽上皇院政)
1142年 近衛天皇即位(4歳)(鳥羽法皇院政)
1155年 近衛g天皇崩御、後白河天皇が即位(崇徳天皇の弟)
1156年 鳥羽法皇が死去(7月)、保元の乱がおこる(7月)
      崇徳天皇が讃岐に配流される(37歳)
1164年 崇徳上皇死去(46歳)

崇徳上皇は保元の乱で敗れてごく少数の女官と讃岐に配流されました。新平家物語では1956年7月23日過ぎに伏見・淀の港を出発して、8月15日頃讃岐の松山の港に着いたとしています。なお、「松山の津(港)」への上陸に先立って崇徳上皇一行は瀬戸内海の「直島」で暫く滞在したとも伝えられています。

「松山の津」は讃岐の国府から瀬戸内海に繋がる街道の海の玄関口となっていたようです。この街道はその中心を「綾川」が流れていて、国道11号線、県道33号、JR予讃線が通っています。四国に上陸した上皇はまず「雲井」の「長命寺」に3年間滞在されました。この間に更に南の讃岐国府近くに上皇の正式な滞在場所が建築されたようです。

「雲井」に近いJR駅が「八十場」です。この八十場には1164年8月に崩御された崇徳上皇の遺体が一時浸して保管されたという「八十場の泉」があります。「八十場の泉」を過ぎると、没後崇徳上皇が祀られたという「天皇寺(高照院)第79番札所)」があります。

この辺りの四国遍路道には第79番札所天皇寺から二つの遍路道があり、歩き遍路は自分の脚力・日程を考慮してどちらかを選ぶことになります。

一つは順番通りに第80番讃岐国分寺を目指す遍路道で、綾川に沿って南下していって旧讃岐国府付近を通り「南海道綾坂峠」を越えて第80番讃岐国分寺に向かう道です。このルートを通ると讃岐国府とかその近くにある崇徳上皇が「雲井」から移られて余生を送った「鼓岡御所跡」などがあり、嘗ての崇徳上皇讃岐配流場所を偲ぶことができます。途中にJR鴨川駅がありますが、その名称は崇徳上皇が京都を懐かしんで「綾川」を「鴨川」とよんだことがその由来となっているそうです。私はこのルートを通りました。

もう一つは第79番天皇寺のあと東に向けて歩き「雲井」を抜けて第81番白峰寺に向かう道です。こちらの道は80番国分寺から第81番白峰寺までの急坂を「下り」で降りることができます。第81番白峰寺には崇徳上皇の廟や鼓岡御所の建物を移築した「頓證寺」があります。こちらの遍路道を通ると、崇徳上皇が3年間滞在した「雲井御所跡」や四国上陸地の「松山の津跡」を通過していくことになります。

この二つの遍路道は両方とも歩いてみたい道です。再び四国を歩き機会が持てたら是非別な道を歩いてみたいと思います。




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