2004年02月07日(土) |
興味深い本。インド関連 |
今、非常に興味深い本を読んでいます。「始まりはインドから」(上村勝彦著)という本です。著者の上村さんは昨年1月に亡くなられてしまい、この本は生前の講演や紀行文をまとめて追悼出版したみたいな形になっています。上村さんの職業は「サンスクリット詩学」。東京大学東洋文化研究所の教授をされていました。
この本を読んで知ったのですが、上村さんの業績はなんといっても「マハーバーラタ」の日本語訳なのです。サンスクリット語の専門家なので、サンスクリットで書かれた(原点に近い)「マハーバーラタ」から直接日本語に訳していたようです。
ところで、何が興味深いかというと、サンスクリット語で書かれた古代インドの書物の専門家の本音が書いてあるということです。古代インドというと、ヒンズー教・ジャイナ教・仏教が生まれた土地です。
日本の仏教は、どうしても玄奘三蔵など中国人僧が漢訳した仏典をベースに研究が進んできたのだと思います。さらに、ヒンズー教が中国に広まらなかったこともあって、私の頭の中では、仏教は漢字で勉強するもの。ヒンズー教は仏教とは違ってインドのサンスクリットで勉強するものという印象がありました。
しかし、本来どちらもサンスクリットで書かれていて、古代インドの人々によって考え出されたものなのです。大きな違いなどあるはずないのではないかというのが私の思いです。2003年暮れにインドの南部のタミールナドに行って、現地のヒンズー寺院を見学してみて、実は日本の仏教との違和感をそれほど感じなかったというのも一つの驚きでした。といっても私は日本の仏教の専門家でもなんでもないので詳しいことは分かりませんが。一方、スリランカのコロンボに2年間暮らしてみて、スリランカに伝わった南方系の仏教(小乗仏教とよんでもいいでしょう)と日本の仏教が結構違っていることに驚いていたのです。
当り前ですが、スリランカの寺院のは「仏像(仏陀像)」しかありません。仏教が仏陀の教えですから当然といえば当然ですが。しかし、日本の寺院には様々の像が祀られています。仏陀像が多いのでしょうが、仏陀像のほかに、観音像(西国33ヶ所は有名です)とか地蔵像とか、文殊菩薩とか弁天像とかその他様々な信仰対象が祀られています。この違いは一体どこから来るのか。さらに、仏陀像の厳しさ、例えば法隆寺の釈迦三尊像や薬師寺の薬師如来に比べて、百済観音や中宮寺の弥勒菩薩がなんとやさしい表情をしていることか。 こうした違いは、単に仏像製作者の趣味によるものではなく、背景には信仰の形の違いがあるのではないかと思われるからです。
仏陀の教えが大変厳しく・難しいものであることは、仏陀の弟子に「第二の仏陀」が出現しなかったことでも明らかです。一方11面観音の慈悲は苦しんでいる人々の気分を楽にします。
例えは適切ではないかもしれませんが、仏陀の教えは「頑張れ、頑張れ」のような雰囲気があり、観音様の雰囲気は「Take it easy」みたいなところが感じられるのです。この雰囲気の違いはどこから来るのだろうかという疑問に対する一つの答えが「ヒンズー教の影響」ではないかと考えるからです。
ヒンズー教においてとても「女性」を大切にしていること。さらに、シヴァ・ビシュヌ等の神々がとても優しく、人間的な側面を持っていることと、そしてなによりインドの人々が優しいからではないかという感じがします。詳しくは分かりませんが、ヒンズー教がとても魅力的に思えてしかたありません。
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