ゼロの視点
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2004年04月27日(火) 生きる

 S嬢に貸してもらった、DVDで黒澤明の映画『生きる(1952年)』を夫と2人で鑑賞。

 今さらあらすじを語るまでもない映画。前回この映画を観た時は、私はいくつだったのだろうか?。恐らく大学生の頃、テレビで観たのだと思われる。

 当時は、黒澤なんてケッ、木端役人がどうしたっ、というスタンスから抜けきれていなかった上、まだ学生、働き続けることの意味などまったく知らん。それなりに、映画には見入ったものの、感動するほどまでではなかった。

 が・・・・・・。

 今回は、自分でも信じられないほど深く静かに感動してしまった。それだけ、私も志村喬演じる“渡辺さん”の年齢に近づいてきた?、ということだろうか・・・。それとも、学生の時よりも、色々な事を経験し始めてきたからだろうか・・・。または、“渡辺さん”やその同僚のように、実はとりあえず生きているだけだったりするからだろうか?。

 市役所で、自分の机に山高く積み上げられた書類に、目を通す振りして、判を押すだけの毎日。それは文字通り“判で押したような生活”であり、30年間無欠勤を誇る“渡辺さん”。フランスだと、さしずめ、"métro, boulot, dodo"というところだろうか。

 癌という死刑宣告を受けて、“渡辺さん”は生き始めるのだが・・・。本当に生きるやり方をしらないために、それを探し彷徨うその姿は、自分探しだの、生きがい探しというものが商売にもなっている現代社会にも、そのまま当てはまる。

 “渡辺さん”の葬式で、彼の遺影を前に繰り広げられるあまりにも俗っぽい会話。自分の地位や生活を守るために、どうしようもない上司に媚を売っていく彼らに対して、“あいつらは本当に嫌なやつだ”と断言できる人は本当にいるのだろうか?。少なくとも、私にはできない、不可能だ。

 そして、酒が入れば入るほど、本音に近づいていく彼ら。だんだんと“渡辺さん”の死を覚悟してからの偉業を認め出しはじめ、彼を褒め上げ出す。ああ、非常に俗っぽい。が、たまらないほど魅力的なシーンだ。

 そして、一同、“渡辺さんのように生きようっ”と酒を交わすものの、また翌日からは、自分たちの機能を最低限にこなす生活に舞い戻る彼らたち。

 生を全うすることがいかに難しいか、また死を認識することがいかに難しいかなどをこれでもか・・・、と提示してくる映画だ。もちろん、渡辺さん自身も、癌の宣告がなかったら、彼らと同じことをしていたに違いないわけであり・・・。

 今の生活を守ろうとする姿も人間であり、そのためには様々なことを犠牲にしてまでもその人なりの“判でおした生活”に飲み込まれていく・・・、これもあまりにも人間的だ。そして、それもひとつの幸せ。

  
 奇しくも、このDVDを貸してくれたS嬢は、ただ今“もしかしたら癌かもしれない疑惑”の渦中にいる。そんなわけで、彼女とは本日、もし余命がいくばくもないと知ったらという仮定に基づき、いろいろと話し、それが脱線して、どんどんとくだらない話になっていき、2人で大爆笑をしていたのだが・・・。



 笑っている場合じゃないよ・・・、なんだか知らないけれど。


 
 生まれた瞬間から、死刑確定囚の私たち。いつその日がくるかわからない。ずっと先かもしれないし、もしかしたら、もうすぐなのかもしれない。そんな死と生のハザマで“充実感”をキープする難しさ。

 やることたくさんあるけれど、とりあえず昼寝、とか、遊んじゃおう、等ということだけは得意な私は、かなりの緊張感をこの映画で不覚にも得てしまった・・・・。

 “渡辺さん”の山高く積まれた書類は、まるで私がやらなくてはいけない懸案事項を暗に示しているようだ。それを適当にやったような振りして処理して、内容も吟味せず・・・。が、癌を宣告された“渡辺さん”はその中の一つの書類を真面目に吟味、そして取り組み、ちいさな公園を作り上げ、そこで充実感に包まれながら独りで死んでいく。



 癌は宣告されてないけれど、さて、私もひとつ書類を吟味してみようか・・・・?。


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