2007年06月02日(土) |
理由があるような無いような・・ |
先日、友人から「子どもを放置してでかける親の、ほんとうのところが知りたい」という話題が出た。 ほんとうのところ・・・私はそんな事は思いもつかないし、考えるまでもないと思っていた。 ほんとうも嘘もない。なるべくしてなった。起こるべくしておきたのだし、人それぞれに理由があり その理由はほんとうのところ、というものではないとなんとなく思っていたからだ。
「○○したらこうなった」と簡潔に語れることなんてそうないのではないかと思っていたのと 情報や知識から理由や実情などは浮かぶからあまり疑問に思っていなかったのでした。
余談ですが、友人の「ほんとうのところ」を知りたがるところもミステリアスでユニークだ。
でも、ふと思いついて、その友人に以下のようなメールを送った。
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私たちの間柄で例に出して話したことがヒントです。
例えば、私が病気になって、あなたが私を見舞いたいと思っていても 距離もあるし、お子さんもいるしで、実現は難しいのですが、実際に、それらの事情を無視して見舞いにやってきても、 私は喜ばない(友人に無理をさせることが好きでないので)と予想もできて、実際にはしない所もあるのです。
では、そういうストッパーが掛からない人ってのはどうなのか、というと やはり自分でも抑制がきかないのと、周囲、相手も抑制のきかない人ということではないでしょうか。
男女間だったり、似たような仲間だったら、そんな面倒くさいことは考えないかもしれません。 むしろ「やっちゃえよ〜」と煽るかもしれません。
例えば、そのときに「子どもを置いて遊びに行くなんて!」と叱ってくれる親や友人がいればまたいいのかもしれませんが それもないから、子どもだけを置いて、どっかへ行ってしまうことが可能なのでしょう。
そもそも、その人自身も保護者などに手厚く保護されていなかった場合もあるでしょう。 腹を割って話せる、ダメなことはダメと言い合える友人、人間関係ができないこと。 現在付き合いのある人たちも、刹那的で、計画性がない。 自分さえよければ、とりあえずいいか〜という考え方の人が主流なのではないかと推測することもできます。 他人の家庭事情までに踏み込んでいけないクールな関係といってもいいです。
「本当のところ〜」という考え方や、そういう事件を起こした人、一人ひとりにいろんな事情があるとは思うけど 結局、抑制する力が備わっていないということなのではないでしょうか。 多少は、子どもだけを放置しておいたらどうなるか、推測はできるのですが、決定的な歯止めにはならない。
歯止めには、繰り返しだけど、いろんな要素があると思いますが、結局はその人に備わってる人間関係力じゃないかと。
子どもに対する愛情、一人で置いておいたら心配、可哀想と思う気持ちはどこから湧いてくるのか? 自分の楽しみを優先するよりもそれが重要と思う心の余裕。
それは自分自身もそうして大きくなってきたという経験も大事だし、保護されて、保護した記憶の蓄積ではないかと思います。(必ずしも親の保護とは限りません) そういう経験や心理的な抑制に問題が起こるような家庭環境で無かった場合、後天的なものがあるかもしれません。
子どもの母であるということは、以前は夫がいたかもしれませんが、夫が家族を放棄して、出て行ってしまった場合、 一人で子どもを育ていくことになり、そのあまりのストレスに抑制が働かなくなったかもしれません。
もしくは、忙しさのあまり食事が外食・中食でバランスが悪くなり、 脳にも栄養が周らず、抑制を促すホルモンなどが周らなくなった等など。
暴力的な、無軌道な行動を抑制するのは幸せを感じるための物質セロトニンなどが、大切だとモノの本で読んだことがあります。 幸福を感じやすい、あるいは本当に幸せな人なら、抑制力も大きく働くけど 自分を不幸だと思い、ストレスを感じているとますます不幸を呼びそうですね。
子どもを放置してでかけた親の生育状況や交友関係、栄養状態などを調べて 統計を取ったらあるいは答えが出るかもしれませんね。
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とエラソーなことを書いた裏づけには、以前、母親たちが自分の遊びを優先する場面を何度か見聞したからでした。 私は、自分が独身で、自由きままに過ごしているから、実際に母親たちの子育ての大変さとかストレスは 本当の意味ではわかってあげられません。彼女たちに意見してもきっと反感を買うだろうと思いました。
そして母親が息抜きできるためには、周囲の扶助が必要だとも思っていました。 しかし、ほとんどの場合、実際に子どもの都合を無視して自分の楽しみを優先させる人には、最初から助けの手はないのです。 もしくは、情報がないため、その手段を得られない場合もある。 それに、世間はまだ子どもを置いて、働くならまだしも、遊びに行くことを推奨してないと思います。 そしてお金もかかるのです。余分なお金があれば、まだそういうことにはなってない気もします。
そういう事をつらつら考えていたら、中央公論5月号の特集が目に入りました。 「下流の家族崩壊」ワーキング・プアから抜け出せないシングルマザーたち〜橘 由歩(ノンフィクションライター) では昨年から今年に起きた子どもを置いて出かけた結果の哀しい事件が参照されています。
想像にたやすい「母になる資格などない」「勝手きままな母親」かの問いに 「子どもが自分でゴハンを食べられるようになったし、1日くらい骨休みがしたかった」とあります。 彼女は公的な扶助も知らず、ひたすら育児と仕事に明け暮れた日々だったそうです。 そして、日本のシングルマザーの実情が続いています。 結びにライターの「それもこれも、女手ひとつでも子どもと人間らしい生活が送れ、情緒的な子育てが可能だったら全く違うはずだ」とある。
私でも、2歳の男の子を一人で置いておくこととどうなるかくらいは想像はつく。 私には2人弟がいるので、小さい頃、本当に目を離すことは危なかった。親がついていても、大変だ。 怪我や事故の危険はいっぱいで、よく大きくなれたな〜と時々感慨深い。 きっと前述の母親もそれくらいは想像ついたかもしれない、でも、とにかく息抜きしたかったんだろうな〜と思う。 子どもが無事がどうかは運もあるね。どんなに大事にしていても、危険な目に遭わないことのほうが珍しい。
さらに、「下流の性が下流を生む」という座談会に続く。 意欲の有無により希望格差。それらの層は運頼みで行動している〜 知識がない。 経済的に余裕が無い人は心理的にも余裕がなくなる。 虐待する親の親の生活も壊れている。 消費、収入、意欲がイコールでつながらず、全部バラバラ。 節約して子どものために何か買うではなく、自分のものを買ってしまう。 自分の生活の展望も持てないから、子どもの将来なんてもっと展望が持てない。 自分の価値が低いと思い込んでいる女性たちが多い。
とあり、私の知る範囲の現実とそこに書いてあることはほぼ一致します。
記事になった文やネットの情報は書き手の主観などが入り、信用できないと友人はいうのですが それなら、自分の足で歩いて、事実を洗い出すしかないと思う。 そして人間の能力には限りあるし、もとより真実などは探しにくいものでしょう。 だから、得た情報により、自分で考え、納得して、行動するしかないと私は思います。目的にもよるでしょう。 あなたはどうしたい?
「本当のところ」の本当があるのならいいけど、無い場合もあると思う。 無かった場合は、それは探される側からしたら、失礼なことかもしれないとも。 確かに、「運頼み」で行動している人に、その行動の裏も表もないからだ。 そういうタイプの人に触れるチャンスがないと、わかりにくい事かもしれないとも思う。 同じくらい用心深いタイプでも、私のほうがそういうタイプの人と見えるチャンスが豊富だったから、その差ということかもしれない。
同じ雑誌記事に、養老さんと将棋の羽生さんの話も載っていて、用心深さ、疑り深いことの特質について触れてありました。
情報、用心深さ、これが無いと野生の世界でも生き抜けないと思います。 人間は社会で生きるものなので、それに人間関係も加わるのではないでしょうか。
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