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小話。 | 2005年05月12日(木) |
「――はやくお逃げなさい。今ならまだ間に合うわ」 幼い頃からずっと彼女に従っていた侍女はぎゅっと目を瞑って首を振った。 「いやです。私は姫様に最期まで付いております」 「逃げてちょうだい」 ぱちり、と木の弾ける音が耳の底を掠めていく。 侍女はもう一度首を振った。視線は炎を反射して赤く光る床に落とされている。 「……ねえ、お願いよ。わたしはあなたにまで死んで欲しくないの」 「私は姫様に生きて頂きたいのです」 「……しょうがないひとね」 彼女の方が年下であるというのに、呆れたように零された呟きはまるで姉か母親のように響いた。 朱色の艶やかな着物は彼女の夫の血に染まって赤黒く変色してしまっていた。その手は膝に抱いた男の髪を梳き、もう片手には血に染まってなお美しく輝く小さな小刀が。 侍女はその姿をじっと見つめた。 「姫様、貴女のお帰りをお父上がお待ちです」 「そう。でもわたしの夫はこのひとなのよ」 「――姫様」 「ねえ、お願いよ。逃げてちょうだい。あなたまでここに残る必要はないわ」 夢見るような漆黒の瞳は奇妙な熱を孕んで艶めかしく潤む。 長い睫毛が伏せられ、唇が愛しげに彼の頬に寄せられる。 炎の向こう側で死者を抱く彼女の姿はぞっとするほど美しかった。 「……きっと、向こうでならこのひとはやさしいわ」 「姫様」 「わたしね、大好きなのよ。このひとが」 謡うような言葉は、その姿とは裏腹に酷く幼い響きでもって彼女の耳に届いた。 「お館様は」 「敵と呼ぶ男の娘を娶って、家臣たちに酷く責められて、とても疲れていたわ」 炎が激しさを増して彼女たちを取り巻く。 肌が焦げるような熱に眉をしかめながらも、侍女はその場を動かなかった。 彼女の独白は続く。 「戦況も毎日悪くなっていって、わたしなんかを構っている余裕はないでしょうに、ちゃんと顔を見せに来てくれたのよ」 笑ってはくれなかったけれど。 「わたし、お父様のところへ戻るつもりはないわ」 柔らかく彼岸を見つめていた瞳が、鈍く昏く光る。 「このひとを斬ったのはお父様なんでしょう?」 「……一騎打ちになったと、聞いております。この火もおそらくは」 彼女はぱちりと瞬いた。 「――これは、わたしがやったのよ」 「……は?」 呆然とする侍女に、嫣然と彼女は微笑みかける。 「このひとを弔う炎よ。どうせ家臣の殆どは寝返ってしまったのでしょう。忠実だった者は先の戦で全て失ったと、嘆いていたわ」 おかわいそうに、と小さな唇が声なく呟いた。 「姫様」 「城下のお父様の軍は慌てているかしら、燃え尽きるのを待つかしら。それともこのひとの首を取りにやってくるかしら」 「姫様」 「このひとに止めを刺したのはわたし。自害できないほどにこのひとは弱っていたから」 無様な最期だけは晒せないと。 震える声で呟いた彼の首を、彼から貰った小刀でもって望むままに掻き切った。 「あとはすべてわたしにお任せ下さいませ」 ですから、黄泉路の入り口でわたしの到着を待っていて下さいませ、と告げたとき、彼はやっと笑ってくれた。 「……」 「このひとの首もわたしの命も、お父様には差し上げないわ」 「姫様、」 呼びかけて次の言葉が見つからずに、侍女はその場に膝を付いた。 「ねえ、早くお逃げなさいな。本当に間に合わなくなってしまうわ」 「……私の夫も、この前の戦で亡くなりました」 この上、姫様を亡くすのは耐えられませぬ。 ぽろりと零れた涙を、姫君はじっと見つめた。 「ねえ、生きている方がしあわせなの?」 「死んで全てが終わりになるよりはずっと、ずっと」 生きて下さいませ、と彼女は叫ぶように呼びかけた。 黒い瞳が心細げな色を乗せて空を彷徨う。 「……でも、やっぱりわたしはこのひとと一緒にいたいの」 ずん、と城が揺れた。 「姫様!」 早くこちらへ、と伸ばした手は眼前に落ちてきた梁に阻まれた。 こちらとあちらを分かつ、猛々しく燃える木の前に、侍女は立ち竦む。 向こう側から彼女を見つめる瞳が、優しく細められた。 「あなたは生きて。そして天寿を全うしたら、わたしに教えてちょうだい」 再び建物が大きく軋む。 次々と落ちてくる梁を避けながら彼女は主人の姿を探す。 「……そのときは、お話申し上げます、から――待っていて下さいませ」 赤い世界に背を向けて、彼女は明け方の空へ向かって駆け出す。 その姿を見送った姫君は、冷たい躯を強く抱いて、きつく目を閉じた。 「夢の中なら、向こうなら、わたしたちは」 笑い合って、幸せで。 「……ささやかな幸せを得て、穏やかに生きていくことはなんてむずかしいのかしら」 ゆるりと身体を起こす。 彼の命を絶った銀色を自分の喉に突き立てる。 「――二度と醒めない夢の中で、お逢いしましょう」 |