理解というもの。(曲解番) |
私が愛する友人達は皆頭が良い。 お勉強が出来るのではなく、考え方が。言うなれば人生のアマチュアといったとこだろうか。 愛しい人達。とても人間臭い。 私は人間臭のしないひとはあまり好きではない。 その人が隠している匂いは、私や、私の友人達にすれば、隠す必要のないものだと思うから。 その匂いを隠そうとしている人は、かわいそうだ。その匂いをいい匂いだと言ってくれる人に、巡り合っていないのだろう。かわいそうな人は、好きではない。かわいそうだと思うのが嫌いなのだ。 かわいそうな人は、理解してもらおうとしない。そのくせ、不平だけはいっちょまえに言う。 そんなに不平を言うなら、告白すればいい。 きっと、私か、私の友達か、誰かは、そのことを、くだらないことと気づかせてくれるだろう。 あんなに隠すのに苦労して、あんなに大きなものだと 思っていたものが実は、妄想という息を吹き込まれ、ふくれていただけの、本当はちっぽけな風船のようなものだと気づくだろう。 憎しみや、怒り、絶望、恥ずかしいと思っていたこと、それが一気にちぢまって、大きな消失感とともに、安息が訪れる。その消失感を埋めるのは大変なことかもしれない。 その時、あんなに隠していたものが本当は今の自分を縁取っていたものだと、それを、愛しく思うだろう。そうすればしめたもので、その傷が愛しく思えた自分を、本当に愛することが出来るだろう。 これは、私の理想論だという人もおられるだろう。 そうかもしれない。 でも、信じてほしい。 私に、愛しい友人が大勢とは言えないが、数人でもいるように、必ず、どこかで自分と同じ考えの人、もしくは、自分を理解してくれる人がいることを。 貴方は決して、特別じゃない。 「本当の自分」という想像上の自分に救世主のように期待をかけてはいけない。本当の自分は、誰かに期待をかけるだけで、なにもしようとしない貴方自身なのだから。 理解してほしいなら、傷をさらけだすところから始めなければいけない。とても痛い思いをすることもあるだろう。いやんなっちゃうだろう。 でも、それが最初の一歩で、それを恐れたり、プライドが邪魔したり、恥ずかしがったりして、出来ないというなら、そんなに、理解を求めていないのでしょう。なら、それでいいんじゃない? 私は諦めたくなくてそうしただけさ。 それだけ。終わり。
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2002年06月21日(金)
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