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2004年03月29日(月) こにくらじいさん逝く

おひさしぶりです。あゆです。
今日の日記は少しだけ感傷的になるかもしれません。

旦那の父が突然亡くなってしまった。
いつか、「りゃ!」の時に少しだけ書いたことがある、あの「こにくらじいさん」だ。

脳梗塞だった。
通常なら手術をすれば助かる状態だったのだが、
義父は7年ほど前から骨髄性異型性症候群という白血病に移行する前段階の病を患っており、そのため、手を施すことができなかった。


いたずら好きで明るかった義父は、生前「こにくらじいさん」と呼ばれるとうれしそうだった。
世話好きで知人を車でいろいろなところに連れて行くのが好きだった。
ある時、義父が「昨日、二十歳(はたち)の女の人を6人食事に連れていってあげたんじゃ」と楽しそうに言ったことがあった。
義父にうら若き女性の知り合いが6人もいたなんて...と思いながらよく話を聞いてみると、実際は60歳のおばさんが2人で、「20歳の人6人分と合わせた年は同じじゃろう。わっはっは」ということだった。
そんな義父が乗っていた車は約9年で17万キロも走っていた。因みにウチの車は約10年で5万キロである。

反面義父は家族にはとても厳格だった。
どちらかというとのんびりしている義母はよく叱られていたし、旦那や義兄は夜中に起こされて朝まで説教されたということも度々あったらしい。
そして何よりも義父は自分に厳しかった。
自分が言ったことはどんなことをしてもやり通した。
義父は30年も前に心筋梗塞を患い、長くてあと5年の命と宣言されていた。
しかし、自分でいろいろ勉強をして、東洋医学が健康を維持するのにベストだという結論を出し、甘いもの好きだったのに砂糖を断ったり、定期的に断食をしたりなど、様々な努力をしてその病を克服したのだった。
私の父が15年前に脳梗塞を患った時に、東洋医学の治療法を勧めてくれて、一時は半身不随だった父も、わずか一ヶ月後には車が運転できるほどに回復したのも義父のおかげだと感謝している。

お通夜、告別式にはたくさんの人が訪れて義父との別れを惜しんだ。
あんなに健康に気をつけていた人が...と誰もが驚いていた。

もともと目鼻立ちがはっきりした二枚目だったのだが、病のために最近はすっかりやせこけていた義父だったが、棺の中の義父の顔はとても穏やかで美しかった。
普段は口げんかばかりしていた義母が「私が一目ぼれした時のパパの顔そのまま...」と言って泣き伏した。厳しい義父をけむたがっていた義兄も旦那も号泣した。5人の孫たちも泣いていた。
こにくらじいさんのことを、実はみんな大好きだったのだ。

私もありがとうと言って涙で義父を見送った。
ただひとつ、後悔していることがある。
義父が倒れる数日前、次女の養護学校中学部卒業の報告のファックスを次女の自筆で送ったのだが、その時に一言、「おじいちゃん、体の調子はいかがですか?」と書かせておけばよかった。書いたのは卒業の報告と、26日に岡山に行くという内容だけだった。
義父の家のカレンダーにはこう記入してあった。

26日りな来岡 
28日りな バーミヤン

28日に次女の好きな中華料理を食べにつれていってくれる予定にしてくれていたのだった。

お義父さん、ありがとう。そしてゆっくり休んでください。




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