フラットメイトのガーナ人の引き笑いが響き渡っておりますな。
今日、ようやく2学期の比較文化のレポートが返ってきた。 遅い!出したのは2月だ! タイトルは "Translation is impossible" Discuss. (「翻訳は不可能である」議論せよ) 使ったケース・スタディーは「The Lord of the Rings」 そう、趣味と趣味と趣味と、実益を兼ねている。 「こういうものを書くよ」という面接は、前レクチャラーと行い、 採点は現レクチャラーなので心配していたが、 「トールキンに関しての意見には同意する、良い用例だ」 と書かれていたので安心した。 (前レクチャラーとはパブで「馳夫」について熱く語り合った) ヴィゴのインタビューをディクテーションする自分もどうかと思ったが。
この時は別に字幕問題は発生していなかったけれど、 発生していたら、違う結論になっていたかもしれないと思う。 私は結局、言葉は文化的歴史的背景を背負っているから、それを 越えることは出来ない。故に完全に翻訳することは不可能である。 という結論付けで、翻訳者の解釈が入るという点には余り言及 しなかった。焦点がぼやけてしまうからだ。 しかし同じトピックを取り上げた友人は、"interpritation"に ポイントを置いていたように思う。小泉八雲を例にあげていた。 ちょっと読んでみたい。
このレポートを書くときに、 「翻訳者がどれだけ翻訳対象の文化をくみ上げて訳すか。」 というのが要点になると思うと話していたが、 それは逆に意訳という名の元に、歪曲させてしまう危険性を 含んでいるのかもしれないなあと思う、今日この頃。 唯、翻訳者の能力と良心とが翻訳の限界点に近づくことを 可能にするというのは、そのとおりだと思う。
"Translater is a traitor."
|