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2001年10月23日(火) ■ |
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シングルトンズ・ダイアリー/デジャヴ |
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このところよく、既視感に襲われる。 「デジャヴ」というやつ。
風景がどうこうではなくて、ふと感じる空気や光に、どこかで出会ったという気がするのだ。それがだいたい、アメリカとかヨーロッパといった感じのもの。<って、どういうのよ!?
「既視感」と書いたけれど、アメリカはともかく、ヨーロッパには行ったこともないのに、「既に見たことがある」というのはおかしい。
以前手相を見てもらった時に、「どこかで外国の血が入ってますね」と言われた。そういえば父は、白系ロシア人みたいな顔をしていたし、祖母もそうだ。もしかしたら祖先にロシア人でもいたのかも。
そういった大昔の遺伝子が、無意識の記憶の中から蘇ってくるのだろうか? それとも、私の前世は外人だったのだろうか? どうも日本は居心地が悪い、しっくりこないと感じるのは、やっぱり前世が外人だったんだな。あはは!
しかし、読書による想像の記憶というのも大きいだろう。自分で経験しているわけではないが、本の世界に入り込んでいった結果、あたかも自分が経験したかのような記憶として残るのかもしれない。
例えば、季節によってこんな本の中の情景を思い浮べたりする。
<春>─ケネス・グレアム『たのしい川べ』、モンゴメリ『赤毛のアン』
<夏>─ローラ・インガルス・ワイルダー『大草原の小さな家』、メアリ・ノートン『床下の小人たち』
<秋>─宮沢賢治『どんぐりとやまねこ』、ブラッドベリ『10月はたそがれの国』
<冬>─ディケンズ『クリスマス・カロル』
もちろん、これはごく一部だけれど、ここで気づくのは、現代文学が入っていないということ、ほとんどが大人になる以前に読んでいたものであるということだ。つまり、子供の頃に読む本は、いかに大人になってからも覚えているか、あるいは影響を及ぼすかということだ。
子供の想像力は素晴らしく、とどまることを知らないかのようだ。本は、それを存分に広げることができる。
私はコンピュータ(テレビ)・ゲームは「悪」であると思っている。小さい子には、できるだけやらせないほうがいい。想像力が死んでしまうからだ。 それに、大人になって思い出す情景が、コンピュータあるいはテレビのスクリーンの中の、バーチャルな風景だなんて、悲し過ぎる。そこには実際に触れることのできる、光も空気もない。
現代は、なんでもすぐヴィジュアル化されて、本を読む前に映画やビデオになってしまう。自分なりの想像を広げる機会もないままに、お仕着せのイメージを受け入れてしまうという、はなはだ嘆かわしい状況だ。 そこには、ディズニーのもたらした害というのもあるだろう。
ヴィジュアル化がなんでも悪いというわけではないが、原作があるものであれば、「本を読んでから観なさい」というくらいの親がいてもいいはず。先に目で見てしまうと、あとから本を読んでも、想像力は全く伸びない。考えることすらしない。
想像力がないと、どういうことになるのか? 現在恐怖に晒されている、アメリカの炭疽菌事件を例に挙げよう。
「米国では開封しやすくするために、封筒を完全にはのり付けしないことが多い。集配の途中で菌が漏れ出したらどうなるか。その想像力が欠けていたのか、生かされなかったのか」
ということになるのだ。単に空想の世界に遊ぶというようなこととは、意味が違う。
想像力や好奇心がなければ、人類は進歩しない。 円周率が「3」になってしまった(実際に「3」になったわけではなく「3」と教えるだけだ)現代で、さらに想像力も欠如してしまったら、人類の進歩は望めないどころか、後退も有り得る。
今日は午後の秋らしい光の中で、「どこかで感じたことがあるのだけれど、どこだったろう?」と思ったことが、人類の進歩の話まで行ってしまった。
そして、その「感じ」がなぜか北欧っぽいなどと思ったものだから(もちろん行ったこともない)、自分の前世は外人だったという結論にまで発展した。
この次は、「私の前世はM78星雲人だった」という話になるかもしれない。
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