以下、タントラについてメモしてほざき。
あ、ちと最初に注記しておきますと、タントラというのはいわゆる性行為によって「エネルギーの質的転換」を起こし、「身体の宇宙性」を感じるという思想です、はい。ウィキペディア(Wikipedia)での定義は
こちら。
よって、引用後のほざきには、ある種の方々からみると“下品”と思われる箇所もあるかと思いますが、まぁ、個人的な日記でのほざきだから許してね、ってことで(苦笑)。
タントラについての補足【美しさの中を歩め--Spirit, Soul & Body】より以下引用。
(略)つまり私の中では「生活の質的向上」と「エネルギーの質的転換」は対立概念ではない。どちらかを選べ、ということではない。だって、そもそも性的ヨーガ自体が、性行為自体において「エネルギーを質的転換」を成功させようというものなのだから。
要するに、「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」と「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」の二通りの方法がある、ということ。そのどちらも「生活の質的向上」が結果として得られる。だって、もし生きているということ自体の価値を高めるためにこそ、修行もあるのであって、決して修行というのは生きることの喜びに背を向けることではない。
(略)現代の性的ヨーガがあるとすれば、それは、パートナー間の性生活を高めるという方向でしかありえない、というのが私の考え。またこれは強調するが、そういうことが「性生活の質的向上」になるのは、そこに実際の「エネルギー転換」が起こるからこそであって、それがここでいう質的向上そのものなのだ、ということ。つまり、「身体の宇宙性」を実感することがすなわち質的向上そのものだ、と言いたいのである。
以上タントラについての補足【美しさの中を歩め--Spirit, Soul & Body】より引用。
まず、「現代の性的ヨーガ」なるものがあると仮定すれば、それってつまりは“パートナー間の性生活を高めるという方向でしかありえない”ってのは、まったくもって現実的な考えだと思うし、個人的にも同感である。(→一般的に考えてもわかるとおり、複数の相手と性交渉をすればそれだけ「病気」のリスクも高まる。それに、複数の相手と性交渉をしたからといって「性生活の質的向上」が得られるかはかなり怪しいし、また「エネルギー転換」が起こるとも限らない。)
で、方法としては“「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」と「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」の二通り”があるワケである。
というか、昔から非常に非常に不思議でたまらないのであるが、たまに(いや、ごく頻繁に、と言ってしまっても良いかもしれない頻度で)現在のパートナーとの性生活に「満足していない」にも関わらず、「でも、良い人だから」という理由でその相手と付き合い続けていて、なおかつセックスし続けている女性(いや男性も居るには居るのだが、圧倒的に女性が多いと私は感じる。)に出会うのであるが、あれって一体何なんだろうなぁ、と。。
そういう方々というのは上の引用で言うところの、「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」にも当てはまらないし、かといって「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」にも当てはまっていないように見えるのである。
というか、あんまり長くなるのも何なので、非常に凝縮して書いてしまうと、そういう方々って、私から見ると、パートナーシップにおいて「身体感覚」と「精神性」なるものが「完全に分離している」人たち、というように見えるのである。何だかすごーーーーく不思議な感じがするのである。
なんていうのかなぁ、ふむ。話を聞いていると、「貞操観念」という建前によって、満足していない性生活を正当化し、目の前のに実在している相手、ではなく、自分の頭の中に存在している「ファンタジーとしての相手」とセックスしているような感じを受けるというか何と言うか。
というのも、性別問わず、ある種の人たちならすんなりわかっていただけると思うのであるが、「身体感覚」の共有なくして「精神性」の共有ってあり得ないし、「身体感覚」抜きで「恋愛」関係って成立しないよねえ。。
ってことは、この場合、「身体感覚」と「精神性」が「分離」している、その「分離」の大きさを(主に女性側が)「演技」でごまかしているのかもしれず、これを経済学的見地から言い換えると、(主に女性側が)提供する「演技」というサービスに対して(主に男性側が)経済的価値(お金や物など)を支払うことで、外形上は性行為に見える性行為が成り立っている(でも内面的・精神的には少なくともどちらか一方が満足していない)、ってことになるのかもしれないけど、こういう解釈って、血が通ってないので一般受けはしないのであるが。。。
というか、ここでいう「身体感覚」とは、作家の山田詠美氏の金言、「始まりは肉体である。なりゆきは、心である」における「肉体」と同じ意味である。
要するに、人は、相手の姿を「見る」、匂いを「嗅ぐ」、雰囲気&オーラを「感じる」など、五感で相手の「身体」が“存在している”ことを知覚することからしか、いわゆる「恋」はできないのである。(注;そもそも、生物学的に言ってしまえば、恋とは「性欲の表れ」であり、恋人同士というのは「発情し合っている者同士」のことであるよ。)
というか、わけのわからないことをほざいてしまったけど。
結局、私は、「精神性」を過剰に重視することが究極の愛や恋愛であると勘違いしている種の人たちが苦手なのかもしれず。。だって、なんだか、「精神性」とか「スピリチュアル」とか「でも良い人だから」とか「相手の性格がうんぬん」とか言ってる人たちって、言ってることと裏腹に、すごーーーく「スピリチュアル」から遠い気がするんだよねぇ。。
それに、一般的に言っても、身体と心が「分離」しているのって、病気になりやすい状態だなワケですし、「精神性」とか「スピリチュアル」とか「でも良い人だから」とか「相手の性格がうんぬん」とか言いながら満足していない相手と性交渉するのって、すごくあなた自身の身体と心を蝕む行為なのかもしれないし、話をしてくれた欲求不満の友人へは「もっと自分を大事にしたほうが良いんじゃないのかねぇ〜」とだけ告げたのであった。(意味もなく長くなってきたので無理やり終了。。)