『文藝秋季号』は山田詠美氏特集で、それを目当てに買って読んだ。もちろんこの特集には大満足だったのだけれど、後半に載っていた長編小説『虹とクロエの物語』
星野智幸著も非常に良かったです、はい。
小中高校時代の同級生だった、虹子とクロエという、過去は同じような生き方をしていた二人の女性を主軸とした作品。読み進めるうちに、なんとなく普通に生きてきてしまった40代の女性の描写にグッときてしまいました、はい。以下、少々引用。
私の罪悪感はいつだってそこに根ざしている。自分を裏切ったくせに、子供を作ってしまった。傲慢なだけで内容のない自分が、子供の目の前でサンプルとして生き続けなくてはならない。私は子供に自分を学び取ってほしくないのに、子供を教育しなければいけない。
(略)寿秀が私を写しつつあると気づくと、私は恐怖を来した。余生しか生きていない、絶望的にくだらない人間を、子供が手本にしていいわけがない。それで懸命に付け焼刃で取り繕うわけだが、子供は取り繕われた嘘をも写していると思うと、また恐怖に駆られる。誰が、私の代わりに理想的なモデルを務めてくれ、と悲鳴を上げたかった。
むろん、そんな人はいない。代われるものでもない。私のまわりも私のような親であふれかえっていた。買い物の行き帰りや公園などの遊び場や幼稚園で顔をあわせる同世代の母親たちは、私と似たり寄ったりだった。
星野智幸著「虹とクロエの物語」『文藝2005秋季号』
これを読んで最初に思ったのは、「誰でもこういう親になる可能性はあるよなぁ」ということ。「どういう親になるか」って、結婚願望や出産願望などの「願望の有無」とはあんまり関係ないところで決まってしまうものなのだなぁと、親という役割を伏せ持つ方々の行動や言動を垣間見るたびに思いますし。
こういうのって、あれがこうだからこうなった、とかいう因果関係や、これはこうだからここでもこうなる、というような確率論とはまったく異なる次元で決まって行くもので、もしかすると、無婚主義の私であっても、何かの拍子にうっかりと「親」になってしまう可能性はあるワケなのである、ふむ。。(あ、その時は友人知人の皆様方、「おまえは、止めとけよw」って一言電話ください、あはw)
とか考えていくと、言葉にすると陳腐すぎてどうしようもないのであるが、結局は、自分を裏切ることなしに、「自分に正直に生きる」ことを最優先事項にする、というのが、子供の前で「サンプルとして生き続ける」には一番有効な心構えなのかもしれない、と思えてきました、もちろん、自分自身に納得して日々を送っていくためにも。というか、私はまだまだ誰の「サンプル」にもなれそうもないので、日々精進あるのみだな、ふむふむ(汗)。