RSS配信β版
   Written by なお。
◆日記『心地よい孤独。』◆
孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。
byバルザック
lll ホーム lll lll 本棚.org lll lll メモ帳 lll lll 未 来 lll lll 過 去 lll lll 目 次 lll


2004年11月09日(火)
“〜だと思う”と“〜である”

(以下、Mixi日記より転載。)

*今までどうでもいいと思い込もうとしてたけど、「どうでも良くないなぁ、これはさぁ〜w」としみじみ思ったので、念のため、ちとほざいとく。

“〜だと思う”という文の締め方を見ると、たまにムカムカしてくることがあるんだよなぁ。というのもね、書き手が記述している内容とその文脈からして、そこで“〜だと思う”っていう締めをするのって、ごまかしてるよなぁとか、わざと曖昧にしてるよなぁとか、そういうこと感じるんだよなぁ、なんか。

まぁ、私自身、言葉に正確性を求めるほう(というか、正直に言えば“かなり”求める人だよ、わたしは。)だからこう思うんだろうけどさぁ。けれど、“〜だと思う”と“〜である”は、世界共通ポリシーの1つとして、ぜひ基準を作り、みんな書き分けて欲しいなぁと思ってしまいますなぁ。

だってさ、これ言ってしまうとお終いかもしれないけど、“〜だと思う”という主観的感情で締めたとしても、既に明らかになっている事実として“〜である”と客観的に言い切ること(=断定)が可能であるのに、既知となっているその事実を書き手が知らず、もしくは知ろうとする努力を怠った上で、とりあえず“〜だと思う”を安易に使う、っうのは、ちと誤解を招かせるよなぁ、読み手に。と思うのよ、最近すごく頻繁に。。

それと、次いでだからこれもほざいとくけど、“主観的な”“主語”(→IとWeのこと。この2重の過剰な表現も正しくはないものの、こう書かないと通じない場合多いんだよなぁ、最近。)が無い文章って、あれ怪しいんだよなぁ〜〜〜〜。なんか知らないけどさ、最後の締めの文が万人受けするような綺麗な表現で終わってるんだよなぁ〜。“事実”(=根拠と読み替えてもOKOK)の所在と事実の確からしさの程度(→これを表現するために“副詞”があるんだ、っぅの。)がどのへんにあるのか示さずに、どこをどうやって理解してもらおうとか、信じてもらおうとしてるんだろうなぁと不思議に思う、ああいうの書く人って。

世界平和のためにも儲けるのは大事だし基本的にはいいことだと思う。けど、そういういう不誠実なアプローチで人だまして儲けるのって、最近の出版業界では大流行してるよね、ホント。。皆さん、本は気をつけて買いましょうな。ふむ。。


←未来  目次  過去→

「たらこ」スキン:エンピツスキンニュース++

My追加
エンピツ