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   Written by なお。
◆日記『心地よい孤独。』◆
孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。
byバルザック
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2004年10月18日(月)
“愛”と呼べる瞬間。

(以下、Mixi日記より転載。)

(休息日ということで、最近自分なりにまとまりかけている、いわゆる“愛”なるモノについて考えてみる、ことを予定しているが現時点ではどうなるか不明、ふむ。。なのでちと変でも怒らないでね、みなさんw=免責事項。)

ではまず、自分は以前はどう考えていたかを知るため、過去日記から拾ってみるわ。(去年の9月くらいのやつ。)

“私なりの愛。たぶんそれは「私は、あなたではない。」という事実から出発する感情。と同時に相手に限りなく同化しようとする感覚。”

“自分は相手と異なる存在だということを嫌というほど認識している人は限りなく他者に優しくなれる。他者を、そして自分自身を尊重できるものだ。”

う〜〜〜ん、青いなぁ(笑)でも基本的にこれは今でも変化していなそう。つまり、「相手は自分とは違う存在だ」(=違う人なワケだから、今までの経験も考え方も癖も脳も違う、って感じかなのかなぁ?)という前提の上で、理解し合うことを志向する、という感じかもしれず。ちなみに記憶によると、これ書いた時に読んでた本はカルロス・ゴーンの「カルロス・ゴーン 経営を語る」とか何とかだったはず。これ読んで感動でおお泣きしたんだよなぁ確か。(もしかするとタイトル微妙に間違ってるかも?なので注意。)

で、これ以上この箇所を考えても進まないので、前から疑問に思っていたことが最近少し解りかけたので、そのことをまとめまする。。で、疑問に思ってたのは、辞書的な意味での“愛”、ではなくて、「いわゆる“愛と呼ばれる感情って、どういう瞬間の感情なんだろう?」ってこと。

で、一番私の経験と認識に近い文、というか歌詞があったので、以下引用。Joni Mitchellの"All I Want"から。(私のレビューにある“Blue”というCDの1曲目にありまする。)

“Oh I hate you some, I hate you some
I love you some
Oh I love you when I forget about me
   ・・・・・・
All I really really want our love to do
Is to bring out the best in me and in you too
   ・・・・・・
I want to make you feel better
I want to make you feel free ”

http://www.jonimitchell.com/Blue71LyricsHome.htmlに全歌詞あり。

私の不正確な訳ではどうにもならんよなぁと思いつつも自分でやるしかないのでやってみると、「愛と呼べる瞬間」に該当するのは、つまり、最初の引用個所で「嫌いな部分もある。ちょっと嫌いなトコもある。大好きな部分もある。自分の存在(=意思とか主観なのかな多分)を忘れた瞬間、私はあなたを愛している。」という部分。(あぁ、やっぱ訳下手だなぁ私。。)で、“make you feel free”、つまり相手を縛るのではなく“自由にしたい”という感情こそが私なりの“愛”なのかもなぁと思ったりする。

つまり、自分にとって徳とか徳じゃないとか考えてたりする瞬間ではなくて、何だか知らないけど相手のために「一肌脱ごう♪」って思える瞬間。そういうのって確かに存在していて、相手がいわゆる恋人ではなくても、家族や友達ではなくても、仕事関係者でなくても、起こり得る瞬間。助けたいとか助けてあげたいとか。そういう感情でもなくて。何ていうんだろうなぁ、あれって。。(あ、上手く説明できる人プリーズw)

あ、そうそう。今いいの思い出したわ。私の好きな言葉に、
「他者を道具としてだけでなく、同時に目的として扱え」という哲学者カントの言葉がある。

これをはじめて聞いたとき、身体が震えたんだよなぁ確か。それまでの私は、表面上は良い人を気取りながらも心の本質的な部分では、相手を“道具としてだけ”扱っていたように思う。で、この言葉を知ることで、高校時代の先生に言われた言葉「勉強とは自分のためにやる、のではなく、人のためにやることなのです」というのがすっきりと理解できた。(あぁ、その時に気づけよ自分。。気づくの遅いよなあ私・・。)

で、他者を“同時に目的として扱う”ためにはどうすればいいのか、を考えたとき、極端な言い方になってしまうけれども、まずは「自分が道具になる必要がある」って気づいた。

これもたぶん1年くらい前に思ったことだから最近過ぎるし、もちろん完璧にはできていないし、というか、もしかすると完璧になったと思いこんでしまった時こそが、一番「愛と呼べる瞬間」から遠いところにいるのかもしれない。そういう意味で、「愛と呼べる瞬間」を求め続けたとしてもゴールはなんて最初からないし、その瞬間に到達したところで、そもそもそれは“瞬間”でしかない。自分と相手という小宇宙の中でしかそうだと認知できない“瞬間”でもある。

けれど、その“瞬間”って人間の心(脳)にとっては麻薬みたいなものなんだろうなぁ。少なくとも私の脳は、それを求めているらしいですよ、あはw

(ってことで、後で修正するかもしれないけど一旦終了w)
(あ、やっぱり本のタイトル間違ってたので修正。。16:07)

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以下、追記。

#ちと参考になりそうなのをみつけたので自分でコメントw
書籍『9歳の大学生』から。(p86)

“人は皆孤独であり、孤独だからこそ愛が成り立ちます。
「孤独だ。自分をわかってほしい」と思うなら、なおさら他人に思いやりを持って生きていかなければなりません。そうすれば、人は想像もできないほどにすばらしい人間関係を築けるようになるはずです。祥もこれらのことを理解してくれているようで、あまり注意することもなくなりました。”
2004年10月20日

#さらにいいの見つけたので自己コメント。
上の文で「自分の存在(=意思とか主観なのかな多分)を忘れた瞬間、私はあなたを愛している。」=私が失われている瞬間、という部分に該当するかもしれない箇所。

“何かをやっていて、大変調子がよい時がある。何かにとりつかれたように、あっという間に仕事が終わることがある。しかし、そんな時は「私」が失われている。むしろ、「私」が感じられるのは、うまく行かない時、失敗した時ではないか。このことを哲学的にどう思うか。そんな話をしていたら、塩谷が突然止まって、うーんとこけた。”
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2004/10/post_20.html

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