この前の日記、読み返してみたけど我ながら大人気ないなぁ。。。というか、知人が亡くなってから数日がたちまして、少しずつ心が落ち着いてきたようです、はい。世の中ってホント不条理だよなぁって今でも思うしこれからもそうだろうけど、その不条理さまでも包み込んで日々遊んでいかなくちゃいかんのだなぁと思えてきましたよ候。
というか、私は今暖かい地におるのですが、非常にもったいないことに遊ぶどころかマジメに仕事(って言っていいのか疑問だけど一応そう表記しとく。)しておりまする。って言っても、こうやってサボる時間があるだけ人間らしい暮らしだよなぁ、オイ。なんて、一人で突っ込んでみたりして、結構平和に過ごしております。
っうか、いつもどおり話は飛ぶけど、さっき今週分の
『おとなの小論文教室』ををグットタイミングで読んだ。何と言いますか、人って一度決心が着いたとしてもぐらつくコトってあるますよな。まぁ、要するに、最近の私はそんな状態になっていたのであるよ、もしかしたら今選んでいる道はベストじゃないかもしれないよなぁ、とかいろいろ。
でも、始める前からベストの選択をベストだって決め付けてしまうのって怖いよなぁって気づいた。経営学的にもまさにそのとおりだし(→人は限定された合理性のもとでしか意思決定できん、とサイモン先生は仰られたそうな。)、少ない自分の経験からもそうだよなぁと思える、ベストよりもベターの先に新しい何かがあったよなぁと。
文中の山田氏の表現では以下が自分にとっては核心的な箇所でした、はい。
どっちを選んだかは、ほんとにどうでもよく、
選択は、選んだときのその人のメンタリティ、
つまり、何を大事に、どう考えてそれを選んだか、
どう想って、その選択を生きるかが、とても重要だと思う。
『おとなの小論文教室』
もちろん、ある程度の計画性も大切だけれど、同じ計画を立てたとしても人によって最終的に到達するゴールが異なってしまったりするワケで、そういう意味では、その“異なり方”の発生原因である“意思決定”こそがその人そのものなのかもしれず。
もっと突き詰めれば、現在の自分の選択を、将来時点でベストな選択へと変換させるような、そんな前向きな“メンタリティ”こそが差異を生むのかもしれん。寝る前に少し、今までの過去を振り返って、自分はどんな時にどんな決断をしてここまできたのだろうと、考えてみようと思います。