「お前はホントに“わがまま”だよなぁ〜。」とヨウちゃん(お友達)にしみじみ言われる。昔はよく言われたものだけど、近年では非常に稀なお言葉。なので、ちと驚いた、というか、過剰反応したらしいよ候。で、“わがまま”とは良く言うものの、“わがまま”という日本語のどの定義を指して、私=“わがまま”と断定しているのか疑問に思い、ちと調べてみました、はい。
以下、“わがまま”の定義。
≪わがまま 【我が▼儘】≫(名・形動)[文]ナリ
【1】他人のことを考えず、自分の都合だけを考えて行動する・こと(さま)。身勝手。自分勝手。「―をいう」「―な性格」
【2】思うとおりに贅沢をする・こと(さま)。
【連語】自分の意のままであること。
「天下を―にまつりごちておはします/大鏡(道長)」
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)≫
うーん・・・。っうか、「私ってどっちの“わがまま”なんだろう?」と思ったので、早速発言者のヨウちゃんに聞いてみた。上の定義を口頭で述べながら「で、どれ?」と尋問。すると、彼曰く、【1】ではなく【2】とも違う、「よって、消去法で【連語】の意味かなぁ?」っうコトでありました、はい。つまり、“わがまま”=【連語】自分の意のままであること=私、っうコトらしい。
うーん、何か違うくないか?自分の意のまま、と言っても、“意のまま”になる「程度」や「場面」等の要素もあるワケでして、自分としては、“わがまま”という言葉の範疇に収まるような“意のまま”加減ではないと思うのだけれど。。。と、そのままヨウちゃんに言ってみたら、「じゃ、次回から“しばしば”“日常生活で”“意のまま”=“わがまま”、って意味で使うことにする。」とのこと。
っうか、今回の例でしみじみ思ったのだけれど、言葉ってかなり共有化されていませんなぁ。ひとつの言葉を始点とする意味のバリエーションは、“わがまま”を例にすれば、「程度」と「範囲」という2つの軸を取ったとしてもたくさんありまする。細かく言えば、「程度」を“しばしば”“いつも”“たまに”と3つ、また、「場面」を“買い物”“食事”“入浴”と3つに分類できると仮定しますと、9通りの意味が、さらに「対象人物」として“家族”“友人”“通行人”を加えますと、27通りの意味が存在するになってしまいまする。(場合わけしてやってみて下され。)
はぁ・・・。“友達”でさえもこんな具合で言葉が共有化できてないワケだから、“知人”とか“通行人”が「対象人物」だったら、共有化には程遠いよなぁと思う。こりゃあ会議進まないワケですなぁ。あ、それに「対象人物」によっては、軸とした“わがまま”な私、をどの程度“わがまま”と感じるか、その感応度が変化するでしょうし、「何事も時と場合によるのであーる。」というのは名言中の名言ですなぁ、はい。
やはり、思いを伝える道具として、言葉は慎重に、そして大切に扱わなくてはならぬ、っうことやもしれませぬ。かしこ。
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・先日、
いやしのつえのじっぽサマが、
14日の日記をリンクしてくださいました。じっぽサマ、重ねて御礼申し上げまする。ありがとうございました。
・
プレジデント・ビジョンのGMOの熊谷社長の言葉、「学ぶとは、いかに自らが知らざるかを知ること」に関してのエッセイ「無知の知」から。自分の現状を知ることから何事も始まるんだから、一度、できないこと・できることを具体的に特定してみようと思う。
タレスは「何が難しいか」と問われて、こう答えた。「汝自身を知ること」タレスは「何がやさしいか」と問われると、こう答えた。「他人に忠告すること」