文章を読んでいて「あぁ、モヤモヤの正体はこれだったのだなぁ。」と気づく。私はそういうことがよくあるのだけれど今夜もあった。書き手の方の属性は一人は27歳、もう一人は37歳。前者は会社員、後者は文筆業。このお二人の文章、異なる場所で異なる物事を描きながらも根底にある思考の癖が似ていてるなぁと思った。そして2つの文章を続けて読んだとき、あぁ、これは私が描けない&描こうとしない、私の一部そのまんまだなぁと思った。
ここ2,3年、言葉して表現できなかったモヤモヤ。その正体は“感情の売買”だったらしい。もしくは“感情労働者”。(例えば『管理される心―感情が商品になるとき』という本があるよ。)私が「あぁ、疲れた。」と感じるとき。「これから疲れるなぁ。」と予測するとき。そういうとき、私は間違いなく“感情の売買”を意識していたのだと気づきました。で、モヤモヤは薄くなったのだけれども、違う面で迷いが生じたりもする。
そしてこの迷いもまた以前から薄々と感じていた種のものだったりする。感情を買う側、売る側、感情を管理しようとする側、という3つの主体を経験してきて、改めて各視点から感情というものを考えたとき、私はいつも迷ってしまいます。私は一体どれになればよいのだろうと。わかるひとにはわかると思うけれど、これはかなり深刻かつ残酷な問いであります。
正直、私はどれにもなりたくないなぁと思い続けている。売る側が精神を病んでいく過程はイヤというほど知っているし、買う側も同時に病んでいるし。管理する側は傲慢じゃないとできない仕事。そして、その傲慢さに気づいた知人はどれにもならずに研究者になっている。同じ理由で、私もまた売買というサイクルの外へと、投資という行為の内へと自分を位置づけたりしているワケで。けれども、そうしてみたところでこの強力な資本主義的サイクルから逃れることはできないことを実感するたびに、この微妙な境界線の上で生き続けたあの人の偉大さを想う。あの人の情熱と孤独の深さを想像できるようになった今日。